fkmt

□膝枕
1ページ/1ページ


気温も上がり春の訪れを感じさせる昼下がり。
仕事がオフの森田はスエットという楽な格好をしてリビングで本を読んでいた。

素寒貧時代では触れることもなかった高いソファーに腰を落ろし、黙々と文字の羅列を追っていく。
近くに置いてあるサイドテーブルの上には似たような題名の本が山のように積まれていた。
オフといえど、自身が裏社会の素人であることを自覚している森田は勉強を怠ることはない。
今読んでいる本も経済を学ぶためにわざわざ用意した本のうちの一つだ。
部屋の持ち主の銀二は仕事で数日前に家を出て、一度も帰ってきていない。
その前は森田が忙しく入れ替わるように銀二が仕事に出たため、ここ二週間近く顔を合わせてはいなかった。

追っていた文字が尽き本を閉じる。
そのまま休むことなく次の本を取ろうと手を伸ばしたところで、廊下とリビングを遮るドアが開かれた。
読書に没頭していた森田は銀二が帰宅したことに漸く気付き、驚いたのか目を丸くしてそちらに顔を向けた。

「あ、おかえりなさい」

それでも言うべきことはするりと口から出て、久しぶりに言ったな。と、頭のどこかでぼんやり考えた。

「昼食べました?食べてないなら何か用意しますよ」

仕事を終えたばかりで疲れているであろうことを気遣う問い掛けに返答せず、銀二は真っ直ぐに森田の座るソファーへ足を向ける。
何事だろうと座ったまま目の前に立つ銀二を見上げる。と、銀二はまるで倒れこむようにソファーに身体を沈め、森田の膝に頭を乗せた。
急なことに対応しきれず膝の上の銀二を覗き見れば、既に目は閉じられていた。

「銀さん。寝たの?」

声量を落とし再び問い掛ければ、帰ってくるのは規則正しい呼吸のみ。
余程疲れていたのだろうと結論付け、先程取りかけた本に再度手を伸ばして止めた。
滅多に見ることのない銀二の寝顔。この機会を逃せば次はいつ見れるかわかったもんじゃない。
森田の興味は本から銀二の寝顔へと移った。

向き合って見れば惑わされそうになる目はしっかりと閉じ、狡猾に動き人を貶めることも持ち上げることも自由自在な口は緩く開けられていて。
人目を引く逆立った髪も今は落ち着き、歳を示す皺はしっかりと刻まれている。

その全てが銀王と呼ばれる平井銀二を形成するものであり、平井銀二自身ではない。
不思議だと森田は感じた。
どれか一つでも欠けたのなら平井銀二であることに違和感を持つことは容易に想像がつくけれど、なにが欠けようとそれを含めて平井銀二と納得できる。

例え目が見えなくても、口がきけずとも、髪が銀髪でなくとも、皺がなくとも。
平井銀二が代わりなければ形成するなにかがなかろうと関係ない。
例え周囲の環境が変わろうとこの人はどこまでいっても平井銀二なのだろう。

感じたことのない気分に苛まれた森田は軽く首を振って思考を切り替え、もう一度銀二の寝顔に視線を落とす。
すると今まで閉じていた目は急に開き、視線が絡み合う。
今しがたの思考がぶり返し反射的に反らすことも叶わず森田は身を固くした。

銀二は視線を動かすことなく片手を上げ森田の後頭部を撫でたかと思うと、力強く引き寄せた。
元々前屈みの状態だった身体は簡単に動く。
驚き声を発しようと口を開けかけた唇に銀二は自分のそれを重ねた。

軽く触れただけの唇が離れると同時に銀二は「…一時間したら起こせ…」と呟いて、頭を同じ位置に眠りにつく。

時間を掛けてなにが起こったのかを理解した森田は徐々に熱くなる顔を、隠すように片手で覆う。
忘れようと意識すればするほど思い出す唇に感じた感触に、銀二の寝顔を観察することを諦めて、読書に専念しようと試みる。

結局銀二を起こすまでの一時間分、森田が必死に目で追った文字は頭に入ることはなかったのだけれど。




End


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ