小説
□走れラドゥ<下>
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ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。
すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁(ささや)きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにラドゥは身をかがめた。水をコップで掬(すく)って、増血剤を入れて、一くち飲んだ。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
歩ける。行こう。
肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。
私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。
走れ! ラドゥ。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。
忘れてしまえ。
五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。ラドゥ、おまえの恥ではない。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!
私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ。
ラドゥは生れた時から正直なよりもやはり不幸な男であった。正直なそして不幸な男のままにして死にたい。