短編小説

□僕と思い出帳と桜の人
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僕の頭の中には大きな消しゴムがあるらしい。その日起こった事、見た事、感じた事を平気で消してしまう大きな消しゴムが。
それが本当かよく分からないけど、実際に僕には昨日の記憶がない。昨日も、一昨日も、その前も。自分が何年生きてきたのか分からないぐらい長い間、僕は今日だけを生きてきた。
唯一、僕が昨日まで生きてきたという事実を証明してくれるのは段ボールいっぱいに溜まったメモ帳だけ。
これに僕は毎日欠かさず今日の出来事を記入してきたらしい。頭の中の消しゴムから思い出を逃がすために。逃がしたところで思い出せる訳もないのに……。






僕と思い出帳と桜の人





ポーン、と少し高い音が家の中に響く。誰かが来た合図だ。
僕は重い体を起こして玄関に向かう。もちろん、“思い出帳”も忘れない。
“思い出帳”は僕の生きてきた証。感じた事や出会った人の事を書いている僕の記憶。……頭の中に残っていないから記憶というのは違うかもしれないけど…。


何度も何度も響くチャイムの音を聞きながら、僕は玄関の扉を開けた。
そこにいたのは腰まで伸びた焦げ茶色の髪を後ろで一つに纏めた女の人。彼女の眉毛は怒ったようにつり上がっている。


「…えっと……」

「思い出帳、5月14日よ。早く開けて」


つり上がった眉毛と同じように怒った口振りで早口にそう言った彼女の言葉に僕は慌てて思い出帳を開ける。
5月14日は確か三日前の事だ。
ペラペラとページを遡ってその日付に辿り着くと、そのページには今、僕の目の前にいる彼女と同じ容姿の人の事が書かれていた。名前は……――――


「高藤……すずこ…」

「れ・い・こ!鈴に子でれいこ!はい、ちゃんとメモして!」


相変わらずの強い口調に押されながら僕は言われるがまま思い出帳に彼女の、高藤鈴子さんの名前に振り仮名を加える。その時、彼女の名前の下にもう一つメモが書かれている事に気付いた。


「……僕の、面倒を見てくれる人…」

「はい、正解。そこだけははいつも書いてるのね。…で、お昼はちゃんと食べたの?」

「……お昼…」

「…………台所行った方が早いわね」


溜め息混じりにそう呟いて、鈴子さんは靴を脱いでさっさと僕の家に上がっていく。本当に僕の面倒を見てくれる人らしい。
どんどん先を行く彼女の後をついて台所に行くと、鈴子さんは流しを見るなり「あー……やっぱり…」とぼやく。


「相変わらず何も食べてない…。ていうか、いつから食べてないのよ、アンタ」

「えっと……分からない、です…」

「…でしょうね…。ほら、今から何か適当に作って上げるから、部屋で待ってて」


その言葉に促されるまま、僕は鈴子さんに「ありがとうございます…」と言って、部屋を後にする。さすがに信用し過ぎな気もするが、悪い人じゃないと思う。たぶん。


自分の部屋に戻り、僕は扉を閉めて短く息を吐き出す。
……“初めて会う人”と親しくするのは難しい。…初めてじゃないけど、僕にとっては毎日が初めてましてだ。
疲れた体を休めるように僕は部屋に置かれたピアノの椅子に腰掛ける。いつからあるのか分からないこのピアノ。習ってたのかも分からない。譜面の読み方も分からない。


………でも、一つだけ弾ける曲がある。曲の名前は知らない。誰の曲かも分からない。思い出帳を見返しても、何故か弾けたという事しか書いてない。不思議な曲。
そんな不思議な曲は、この椅子に座った時にだけメロディーが頭の中を駆け巡る。それに合わせて指が勝手に動き出す。頭が覚えてるというより、体が覚えているのかもしれない。
もう一つ、この曲を弾いてると不思議な事が起きる。頭の中のメロディーと一緒に桜の花弁が舞い散る景色が浮かび上がってくるんだ。視界を覆い尽くすような花弁の向こうには楽しそうに笑う女の人。誰かは分からない。


――――……どれだけ長い時間、このメロディーを奏でていたのかは分からない。最後の旋律を弾き終わり、僕は長く長く息を吐き出す。
……そう言えば何か忘れているような気がする…。あぁ、なんだっけ…。


「………あ、ご飯…」


そうだ、ご飯。
鈴子さんに任せっきりも悪いような気がする。……もしかしたら、以前から任せっきりだったのかもしれないんだけど…。

部屋を出て、台所に戻ると、そこに鈴子さんの姿はなかった。あるのはフライパンから漂う昼食の匂いだけ。


「……鈴子さん…?」


キョロキョロと辺りを見回すと、台所と繋がっているリビングに彼女の姿はあった。


「…あの……鈴子、さん……?」


コルクボードに貼られた写真を眺める鈴子さんの名前を恐る恐る呼んでみると、彼女は驚いたように肩を跳ねさせて振り返る。


「……あっ、ごめん…。お腹空いた?お昼、もう出来てるから、座ってて…」


そう言って彼女は慌てたようにコルクボードから離れて早歩きに台所に戻っていく。
それを横目で見送って僕は彼女が見ていたコルクボードに目を向ける。そこに貼られていたのは桜の写真。いつのかは分からない満開の桜が写る写真だ。


「…………桜、好きなんですか?」

「……そうね、好きかも」

「じゃあ、今度見に行きましょうよ、桜…」

「今度って……もう5月なんだから桜なんて咲いてるわけ……」

「来年の話です」


僕がそう答えると鈴子さんは、また驚いたように目を丸くさせ、今度は呆れたように笑った。


「明日になったら今日の事も忘れてるアンタが来年の約束なんかして大丈夫なの?」

「思い出帳に書けば……たぶん…」


本音を言えば自信なんてない。思い出帳に書いたところで来年の僕が感じるのは「本当に僕の字だろうか」という不安だけだろう。いわゆる、ゲシュタルト崩壊。
つい俯いてしまう僕の前に鈴子さんは炒飯の乗ったお皿を置いてくれる。


「気持ちは嬉しいわ。ありがとう」

「……………いえ…」


妙に照れ臭くなって、それを誤魔化そうと僕は炒飯を口に含む。少し熱かったけど、すごく美味しくて、また一つ思い出帳に書ける事が増えた瞬間だった。






――――――
突発短編


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