番外編

□君の名を呼ぶ
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……幼いころ、よく自分の諱(いみな。本名の事)を忘れるという普通なら絶対に有り得るはずのない失態をしていた記憶がある。
だが、俺の場合は忘れても仕方がなかったのかもしれない。物心ついたころから与えられた字(あざな)、もしくは“神童”や“折原の子息”…そう言った言葉たちが俺の形容詞になっていた。

――――…だから、諱……俺の名前なんて必要ないと思っていた。




「―――…、……ってば!……こら!折原泰人!無視しない!!」


ぺし、と軽い音をたてながら後頭部に少し痛みが走った。「…なんだ」と叩かれた後頭部を押さえながら泰人がゆっくりと振り返れば、不機嫌そうに眉を顰めて自分を睨む凪と目があった。


「なんだ、じゃないでしょ?一体何度呼んだと思ってるのよ」

「そんなに呼んでたか?俺にはいきなり頭を叩かれたように思えたが……」

「そんな酷い事しないわよ。……あ、はい、コレ。頼まれてた書物。妖人に関してはあまり詳しく書かれてなかったけど…」

「そうか…」


手渡された書物を受け取り、ペラペラと中に目を通す泰人の横で凪が「それにしても…」とおもむろに口を開いた。


「……今まで全くと言っていいぐらい自分の事に興味がなかった泰人がいきなり妖人について知りたいなんて言うなんてね…。正直、ちょっと驚いちゃった」

「………」

「…ちょっと、聞いてるの?」

「………」

「泰人!」


凪が声を張り上げれば泰人はピクリと肩を小さく跳ねさせて驚いたように彼女の方を向いた。


「……俺か?」

「私と貴方以外、誰がこの空間にいるのよ」

「確かに、それもそうだな…」


溜め息混じりにそう呟き、泰人が開いていた書物をゆっくりと閉じれば、凪が少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「あら?もしかして、五行術では天才的な能力を発揮する貴方でも、自分の名前を覚えるのは苦手なのかしら?」

「………そう、かもな」

「…」


意外だった。
いつもの彼なら、例えそれが事実であっても「そんなことはない」と意地っ張りに否定すると思っていたのだが、まさかこうもあっさりと認められてしまうとは……。
予想外の事に思わず呆気にとられる凪を他所に、泰人はまるで笑い話でもするかのような素振りで話し始めた。


「………昔からあまり諱で呼ばれることがなくてな。字だったり、“神童“だとか、そういった風にしか呼ばれなかったせいか、慣れてないんだよ。自分の名前に……」


我ながら馬鹿みたいだ、と自嘲気味に笑いながら凪の方に視線を向ければ、彼女は小さく俯いていた。その様子に泰人は不思議そうに小首を傾げる。


「…どうした?」

「ごめん、なさい…」

「なんでお前が謝る」

「………何となく…」

「意味が分からん」


可笑しそうに小さく鼻を鳴らして笑う泰人に対し、凪はやはり俯いたままの状態だった。
そんな彼女の様子に泰人は困ったように首の後ろを掻きながら深い溜め息をこぼす。


「そう気にするな。俺自身、この事はただの笑い話としか思っていない。…それに、名前なんて別にどうでもいいだろう?」

「良くないっ!」


突然声を張り上げて、俯いていた顔を勢いよく跳ね起こす凪に、今度は泰人が呆気に取られた。


「せっかく貴方がご両親からもらった名前なんだから、もっと大事にしなくちゃ!!」

「……それでも、あの家族だって俺の事はほとんど名で呼ばなかった」

「それでも――――」


彼女の言葉が終るよりも先に、泰人が「凪、」と彼女の名前を呼び、それを遮る。


「……もう、別にどうでもいいんだ。俺にとっても、な…」


そう言った泰人の表情はひどく寂しそうな笑みで、思わず凪は小さく息を呑んで彼から目を逸らし、また俯いた。


「………泰人」

「なんだ?」

「泰人…」

「だから、なんだって……」


少しうんざりしたような口調で泰人が尋ねると、凪はいきなり彼の肩を掴み、真っ直ぐとした目で彼を見据えた。


「…私が呼んであげる」

「あ?」

「貴方が今まで名前を呼ばれなかった分、私が呼んであげる!あだ名だって付けてあげる!……だから、そんな寂しい事はもう言わないで」

「………」


凪の言葉に泰人はしばらく呆けていたが、それから幾分かして彼は呆れたような笑みを浮かべた。


「あだ名は要らん、あだ名は」








―――――
泰人と凪

のちに彼は凪から『ヤス』というあだ名を頂くのでした。

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