番外編

□雨降る日
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鉛色の空から激しい音と共に降り注ぐ雨粒。その音を聞きながら杏奈は湿気で跳ねる横髪を指に巻き、「ねぇ、玖旺君」と目の前で丸くなっている狐に向かって静かに口を開いた。


「…泰人さんは?」

「彼なら自室に篭ってますよ」

「どうして?」

「逃げているつもりなんですよ。彼は雨が嫌いですから」


そう答えて玖旺は毛並みの整った尻尾を数回揺らせて見せた。
彼の答えに杏奈は「ふぅん…」と小さく呟いて胸の前に抱えた膝の上に顎を乗せる。


「………心配ですか?」

「…心配、って訳じゃないけど……」

「なら、気になる、ってとこでしょうか」

「………たぶん、そう…」


どこか自信無さげな声で呟いた彼女に玖旺は可笑しそうに喉の奥を鳴らし、細い目をさらに細めて笑う。
そして犬歯が並ぶ尖った口をパカッと開き、それを流暢に動かして「ならば、会いに行けばいい話ですよ」と言った。
その言葉に杏奈は少し表情を渋らせる。


「……絶対に怒るよ、泰人さん…」

「大丈夫。彼は貴女には甘いですから」

「…そう、かなぁ……」

「そうですよ、彼と付き合いの長い僕が言うのだから間違いありません」

「…………うん…」


どこか曖昧な返事を一つ返して杏奈は指に巻いていたままだった髪を離して、そっと腰を上げた。そんな彼女を狐はただ静かに見送った。



* * * * *



しっかりと閉まった襖の前で杏奈は難しい表情を浮かべていた。


――――…どうしよう。


内心でそう呟いた彼女の中で渦巻くのは照れ臭い、という感情ではなく、迷いだった。
触れてはいけない、そんな気持ちがぐるぐると渦巻いていた。


「…………や、泰人…さん……」


微かに震えた声でそう呼び掛けてみたが、返事はない。「あ、開けますね…」と念のために断りを入れてから、彼女はゆっくりと襖に手をかけ、横に動かした。

予想よりもずいぶんと薄暗いその部屋の奥にはこちらに背を向けて横たわる泰人の姿が。


――――………寝てる?


一歩、また一歩となるべく音をたてないように彼に近付いて、そっとその顔を覗き込めば、黒い髪の隙間から覗く黒い瞳がギロリと鋭く杏奈を睨んだ。


「ひっ…………あっ!?」


短く悲鳴を上げて彼女が身を引くよりも一瞬早くに泰人の手が彼女の腕を掴んだ。
バランスを崩した杏奈はそのまま泰人の上に勢いよく倒れ込む。その拍子に「うげっ…」という短い苦悶の声が響く。


「…………いきなり倒れ込むな、殺す気か…」

「じゃあ、いきなり腕掴まないでくださいよ!」

「……反射だ」


まだ少し顔をしかめながらそう答え、泰人はのろのろと体を起こす。


「………何か、用か?」


そう尋ねる彼の声はいつもと変わらないが、どこか元気無さげだな、と杏奈は内心呟く。


「用、ってわけじゃないんですけど………お茶淹れたら飲むかな…って……」


恐る恐る、泰人の表情を窺うように視線を彼の顔へ上げれば、泰人は雨音の響く外の方を見据えて黙り込んでいた。
雨を見据える彼の目は、酷く冷たい。


「…あの、泰人さん……」

「ん、行く…」


少し掠れた声でそう返し、泰人は静かに立ち上がる。
酷く覚束ない足取りで部屋を後にする彼の後ろ姿を杏奈は複雑そうな表情で眺めていたが彼女もすぐに立ち上がり、泰人の後を追い掛けた。


庭と面する廊下を歩いている間も、泰人の視線は雨粒が打ち付ける水溜まりの方を向いていた。


雨、やっぱり嫌いですか?


……なんて、素直に聞けたらどれ程気持ちが楽だろうか…。
杏奈は喉まで出かけた言葉を飲み込み、代わりに「そう言えば…」という言葉を紡ぐ。


「……明日からはずっと晴れるんだって」


そう呟いた杏奈の言葉に泰人は「そうか…」と呟き、鉛色の雨雲を見上げた。


「晴れるのか……」


独り言のようにこぼれた声はどこか安堵したような、残念そうな、そんなトーンで杏奈はただ目を伏せる事しかできなかった。





―――――――
雨の日になると昔の事を思い出してしまう泰人と、そんな彼がちょっぴり悲しく思う杏奈

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