春の巻
□八章 平塚 縄手道
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彼は海の夢を見ていた。
いや、海と言えるのだろうか。
水の上をゆらゆらと浮かび。
でも、何かにぶつかることなく。
ここが何処だと、考えることすらしなかった。
目をつぶり、波に身を任せ。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
心地よかった。
水は冷たくなく、むしろ優しく暖かい。
このまま、ずっとこうしていたかった。
その時、何かが両肩の外側から水面を割って出てきた。
水中から出てきたそれは、彼の体をがしっと抱くように捕らえた。
それは人の腕なのだと、感触で分かった。
そのまま腕は、彼を水の中に引きずり込もうとした。
彼は抵抗しなかった。
そして、同時に耳元に唇が寄せられた。
「少し体を借りるわね」
それは女の声だった。
バシャンッと水の中に沈みながら、彼は初めて目を開いた。
眼前に見えたのは、真っ白い髪。
そのまま彼は沈んで行き、水面だけしか見えなくなった。
きらきらと光る、水中からの水面。
水の中だと言うのに不思議と苦しくは無かった。
ただ、浮いていたときと同じく、ただ、心地よくて。
水面からの光も届かなくなってきた頃、彼は再び目を閉じた。
眠るように意識を手放して。
闇の中、闇に抱かれている気がして。
誰かが、落ちてきた自分を抱きしめてくれた気がした。
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