[ショート・ショート]

□【グレー。】
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 誘惑に負けた俺は、クロッキーブックの新しいページを開くと、静かに鉛筆を走らせた。
 立ったまま、矢野の寝顔とクロッキーブックを交互に見ながら、やっぱり好きだなと思う。
 矢野を顔で好きになった訳ではないが、見る度に愛しく思う。
 今は柔らかく閉じた瞼も、特別長くはないが生え揃った睫も、キリッとした眉も、可愛い鼻も、寝ていてもしっかり閉じた唇も、組んでいる細くはない腕も、はみ出して肘掛けに投げ出された足も、全部が好きだ。
 それらを観察しながら、丁寧にクロッキーブックに写し取っていく。
 準備室には鉛筆の走る音だけが響く。
 二人だけの空間。
 ゆったりとした時間。
 俺は夢中になりすぎていた。
 はっとして耳をすますと、廊下から女子部員たちの声がした。
 まずい、見つかる……。
 俺は慌ててクロッキーブックを閉じて、ロッカーに戻した。
 それから美術室の一番端の定位置で、読みかけの小説を開いた。
 気持ちを落ち着けることに集中しようとするのだが、周囲の事が気になって上手く出来ない。もちろん文字なんてひとつも頭に入って来ない。
 嫌な緊張感に鼓動が早くなっている。
 とにかく不自然に見えないように。
 外の話し声がもう近いと思ったら、扉が開けられて女子が三人入ってきた。
「あー、遥ちゃんは今日も早いねー。また小説読んでるし」
 一番明るい女子の一人が声をかけてきたので顔を上げる。
「あ、うん」
 いつもはどんな返事を返していただろう。不自然に見えてないだろうか。
 女子というのはカンが鋭いから注意しないと。
 そう思っていたが特に反応はなく、内心胸を撫で下ろしていると、女子たちは準備室へ入っていった。
「あ、矢野! 寝てるよー」
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