雑食

□どろり、溶け出す
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教室から一歩踏み出せば、そこは別世界のように冷たい。それが私は堪らなく嫌いだった。暖房の効いた教室内との温度差も、廊下の窓から覗く鼠色の空も淋しくなってしまった裸の木々も。だいっきらいだ。


「ごめんねさんちゃん、呼び出しちゃって」
「ううん、何か用だった?」

休み時間、クラスの人に呼ばれて言われるがままに教室の扉まで行けば、及川くんがいた。どうやら私に用事があってわざわざ隣のクラスからやって来たらしい。廊下から流れる空気がひやっと頬を掠めて、心臓が締め付けられそうだ。

「今日の昼、暇かなと思って」
「昼休み?暇だよ。何かあるの?」
「部室の掃除手伝って欲しいんだ。明日部室点検あるから。人手が足りてなくてね」

及川くんは申し訳なさそうに頬を掻いた。そういえば、点検をするという旨の連絡を最近顧問から聞いたかもしれない。うちの部室はそんなに散らかっていないし、それほど大変な作業ではないだろう。それに、男子バレー部のマネージャーである以上チームに貢献するのが筋というものだ。二つ返事で了承すれば、及川くんはありがとうと微笑んだ。

「あ、そうだ及川くん」
「ん?」
「監督から連絡事項のメモ預かってるんだった、及川くんにって」

今日の午後練までに渡しに行く予定だったのだが、及川くんの方から訪れてくれるとは都合がいい。他所のクラスって行きにくいから。ブレザーのポケットを漁ると、指先が入れっぱなしにしていたチョコレートに触れた。一昨日友達に貰ったのを忘れていた。きっと包装の中で溶けてしまっているだろうなぁ。どろどろに溶けたチョコレートは嫌いだ。

「あ、あった及、」

及川くん、彼の名前を呼ぼうとして言い淀む。及川くんの視線は私のずっと先を捉えていたのだ。私の背中のもっともっと向こう、暖かい教室のずっとその先を。こんなに鮮明に感じたのは初めてだ。及川くんはいつだって私の後ろを見ていたけれど、これだけはっきりそうされては気付かない振りもできないだろう。右手で取り出した四つ折りの紙を思わず強く握った。

「!ああ、ごめん。貰っとくね。ありがとう」

私の手からメモを受け取った及川くんは一瞬だけ私を見たけれど、その後すぐにまた私を見なくなった。私を見ているけれど、見ていないのだ。一体私を通して何を見ているの、なんて聞くのはきっと愚かしい行為なのだろう。口を開ければ愚か者になってしまいそうで、私は静かに首を横に振った。

「さんちゃんってさ、」

あ、いやだ。背筋がぞわりと粟立つのを感じる。目を細めた及川くんに、嫌な予感がした。及川くん、私はさんだよ。

「ポニーテール似合うよね」

ああ、ほらやっぱり。きっとお姉ちゃんにも同じことを言ったんでしょう。最近家族や近所の人にお姉ちゃんによく似てきたね、と言われるようになった。その事実に少なからず喜びを覚えて、そんな自分をやはり嫌いだと思った。お姉ちゃんに憧れる自分は好きじゃない。

「及川くん、私」
「え?」
「あ、ううん。なんでもない」

口から出かかって、止めた。これを言ってしまえば関係が終わってしまうかもしれないから。私は、友達でさえもいられなくなってしまうかもしれないから。だから、言わない。

「それじゃあね、及川くん」

踵を返して自分の席へ戻ろうとしたときだ。私の右手を骨張った冷たい手が掴んだ。それと同時に聞こえてきたのは、悲しそうに振り絞った及川くんの震える声。

「待って、待って」

そうしてお姉ちゃんの名前を呼んだ彼。きっとあのとき及川くんが言いたくて、言えなかった言葉。去っていくお姉ちゃんを、引き留められなかったのでしょう?でもね及川くん、私はね、違うんだよ。

「及川くん、私はさんだよ」

振り返らないままに、言った。及川くんがどんな顔をしているのかは知れない。けれど私は振り向くことができないのだ。私の半身はもう、蝕まれているから。いつ愚か者になってしまうのか知れないのだ。及川くん、あなたが私を通して何かを見ているように、私もあなたを通して見ているんだよ。きっとあなたと同じものを。及川くんの背中のもっともっと向こう、冷たい廊下のずっとその先に。

「あ・・・ごめん。ごめんね、さんちゃん」

そこで漸く右手が解放されて、けれど私はそこから動けなかった。足が地面にくっついてしまったように重たいのだ。ねぇ、だって及川くんはきっとまだその先を見ているのでしょう?

「じゃあ、またお昼にね」

依然として背を向けたまま別れを告げて、後ろ手に教室の扉を閉めた。重たい足を引き摺るように動かして、やっとの思いで席に着くのだった。一年前のバレンタインデーに恋仲になった及川くんとお姉ちゃん。行き場をなくした私のチョコレートはどうなったと思う?それから別れるまでの半年間、チョコレートはずっと溶けたままだった。彼らは知る由もないだろう。そうして、あのときから一年が経とうとしている。また二月がやってくるのだ。暖房の効いた室内との温度差も、窓から覗く鼠色の空も淋しくなってしまった裸の木々も。未だに私はだいっきらいだよ。チョコレートはまだどろどろのままだ。





どろり、溶け出す



130206



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