長編
□犬グレナツ5
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そこは寒くて暗かった。
何かが腐ったような異臭が充満していてそこに居るのも辛かったが、移動しようにも身体が動かない。食事を摂れていないのもあるが、それ以上に生きる気力もなかった。箱の中に閉じ込められて、外の景色を見ることすら叶わないが、随分と劣悪な環境に捨てられたのだなと思う。
さて、自分を連れだした白衣の男はどうなっただろうか。
処分される筈の実験対象を外に連れ出したのはいいが、研究所から追い出され、満足な設備もない中一人で研究するのは難しい。そして自身の所業に恐れをなしたのか、こともあろうに責任を放棄し実験対象を捨てた。しかも自分で手を下さず、ゴミ捨て場だ。あの男にとってはグレイは生物ですらなかったのだろう。
そもそもそんなことをしてまた研究者として業界に舞い戻ろうとしたのか、あの男の考えは知った事ではないが、この先あの男が研究者として生き続けるのは難しいだろうというのは分かる。違法な研究をしたその第一人者である男を所属していた企業が黙ってのさばらせておく筈がない。
まあ、あの男がどうなったところで関係ない。
自分は恐らくここで死ぬのだろうから。
何度目かも分からない死について考えていると、不意に頭上が開いた。眩しく照りつける太陽に一瞬目がくらむ。そっと目を開け光に慣れてくると、逆光になって良く見えなかったが幼い少年の驚いた顔があった。
「ままぁ、わんちゃん!」
甘えた声が親を呼ぶと、母親が小さく悲鳴を漏らして少年の手を引っぱった。
「触らないの、汚いでしょう!」
病気でも移ったらどうするの、そう叱咤する母親に少年は不思議そうな声を漏らしていた。二人の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、再び手に顎を預けて寝そべる。
視界の端には山積みにされたゴミ袋がある箱に閉じ込められていた時よりも酷い臭気に吐き気がした。薄々気づいてはいたがこう目にすると、こんな所に居ては確かに汚く見えるだろうなと自嘲するしかない。
このまま収集車に回収されるのか、それとも保健所に連絡されるのか、放置か。そのどれでもこれからの運命が変わる訳じゃない。けど、この太陽に看取られるのならそれの方がいいかな、そう思っていた。
しかし、どうやら自分は神様というヤツから嫌われているらしい。分厚い雲が流れてきて、太陽は空の奥に隠されてしまった。
収集車がゴミを片付けていき臭いはましになってきたが、保健所の人間らしき者は来ないし、もちろん収集車に回収されることもなく、ダンボールに入った犬だけが取り残されていた。
何人か人間がきて、ゴミを捨てたり通り掛かったりしたが、一様に見て見ぬふり。
犬一匹がどうなったところで関係ない。
誰か他の人が、なんて人間は誰もがそんな表情をしていたように思う。
やがてぽつりぽつりと雨が降り出した。
ダンボールや敷かれたタオルに水がどんどん吸いこまれていく。容赦なく身体にも降り注ぐ雨にどんどん体温を奪われて、次第に意識が薄れていく気がした。
惨めだ。
こんなところで死ぬのか。
人間の勝手で生みだされて、中途半端な知識を植え付けられ、人と同じ様な感情を持たされて。
どうして生まれたのか、その意味を知る事もなく。
なんて、惨めなんだ。
厚い雲に覆われた空にはあの暖かな太陽はどこにもなく、たった一つの願いも叶わないまま目を閉ざした。
心地よい浮遊感と共に暖かなものに包まれている。
絶望に沈んでいた心にふわりと舞い込んだ何かは、確かに届いていた。
生きろ、と誰かの声が聞こえた気がした。
***
「ナーツ」
「ぐえっ」
グレイはキッチンで料理をしているナツを後ろから抱きしめると、力を強くしすぎたらしく軽くえずく。構わず首筋に顔を寄せるすんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「いい匂い……好きだ、ナツ」
「あーはいはい、もうすぐできるから待ってろ」
ナツはいい匂いというのを料理の匂いと捉えたらしい。確かに料理も香ばしくて食欲をそそられる匂いがするが、ナツ自身がいい匂いなのに。そういう鈍いところも好きだ。
首筋からきゅっと結ばれた唇が見えて、堪らず唇の端を舐める。こら、とこっちを向いたナツの顔に片手を添えるとそのまま次の言葉が出る前に塞いでやった。
「んむ…ッ」
ちゅ、ちゅ、と音を立てながら何度も啄ばんで、時折唇を舐める。犬の体の時じゃこんなにキスはできなかったら、人間の身体になって万歳だ。もっと早く正体明かしていればよかった。
身体も唇も硬くして、ぎゅううっと目を瞑っているナツの可愛さといったら。
「いーかげんにしろ!焦げちゃうだろ」
額に手を当てられてキスを制止されれば、今まで左右に振られていた尻尾が力なく垂れ下がった。それを見たナツがうっと言葉を詰まらせると、焼いていた肉を菜箸で摂り口の中につっこまれる。
「それ食って、あっちで大人しくしてろよ」
すぐ行くから、と耳のあたりを撫でられてグレイは素直に頷いた。
ソファの上から料理をしているナツを見つめながら思う。
ナツは汚らしくゴミ捨て場に捨てられていた、誰もが見て見ぬふりをしたグレイを救った優しい人間だ。死を覚悟した時、ほんの少し暖かさを教えてくれた太陽に似ている。
最初の頃はどうせこいつも他の奴等と同じでいつかは自分を捨てるのだと、全く信用していなかった。触られそうになれば威嚇するし、用意してくれた飯にも手を付けず、ナツはいつも頭を抱えていたと思う。それから友達だという金髪の女に引き渡されそうになって、ああやっぱりこいつにも捨てられるんだって思った。
女が持っているケージに入れられたら、もうきっとナツに会うことはない。もうあの琥珀の目に見つめられることも、優しい手を伸ばしてくれることもないんだと思った。
でもそれはナツの責任じゃない。今までナツを拒絶してきたその結果――自分で招いてしまったことだ。
そう思ったら身体が勝手に動いて、女の履き物をめちゃくちゃにしてしまっていた。
その惨状に悲鳴を上げた女が、グレイの気持ちを勝手に代弁していた。
――一緒にいたい
その言葉がストンとグレイの中に入って来て、ああと一人納得した。
――オレはナツと一緒にいたい。
他の誰かじゃ駄目なんだ。
そうしたら、今までナツを拒絶し反発していた壁が急に取り払われて、その日初めて素直になることができた。
受け入れたナツの手はとても心地が良くて、今まで拒絶していたことがもったいないと思う位で。その日からグレイは意地も恥もくそくらえと、愛情を示す様になった。
好きで好きで堪らない。
だから自分が人の形をとれるのだということを死んでも言う気はなく、普通の飼い犬として死ぬまでナツと一緒にいると決めていた。
ほんの数日前、もうここには居られないと告げられどれだけ苦痛だったろう。それは身体の成長に伴うやむを得ない理由だった。グレイの為にと決断した事かもしれないが、ナツの傍に居られないのはグレイにとって世界を奪われるのに等しい事なのだ。
恐らく一緒に過ごす最後の夜。
ナツの寝顔を眺めながら、もうどうにでもなれと半ばヤケクソで人間の姿になっていた。
久しぶりの人間の身体は、昔よりもずっと成長していた。それこそナツよりも大きく。
永遠に隠し通す筈だった秘密。ナツが目覚めた瞬間、終わる。けれど心の何処かで本当は全てさらけ出したいと思っていたのかもしれない。
人と同じ五本の指を眠るナツの頬に滑らせる。指先に伝わる柔い感触はあまりに危うくて簡単に傷ついてしまいそうで怖かったが、それ以上に触れることができたのが嬉しくて堪らなかった。
こんな風に触れたかった、ずっとそう思ってきたから。
あどけない寝顔。薄く開いた唇から零れ落ちる静かな寝息。
人の姿になったとはいえ五感は獣のままだ。あまりに無防備な姿と大好きなナツの匂いに、下肢がずくりと疼いた。
人が愛情を示す為にどういうふうに触れ合うのか、知識はある。
それは獣にとって子孫を残す行為でしかないが、子は成せなくとも人は同じ性でもそういうことができるのだ。
交わりたい。
全部自分の物にしたい。
自分がどれほどナツを想っているのか知らしめたい。
獣の時は身体の作りが違うから抑えられていたのに、人の姿になって抑えていたそれらが急に溢れだした。
本来動物とは本能に忠実なもの。いくら知識があろうと同じ形になれようとも、グレイは人と同等の理性は持ち合わせていない。
気付いた時にはもう本能の赴くままナツの喉元にくらいついていた。
「おい、グレイ。ぼーっとしてどうした?」
「うお!?」
ナツの声に意識を取り戻す。どうやらすっかり考え込んでしまったらしく、ナツが心配そうに顔を覗きこんでいた。いつの間にか夕飯の準備はできており、テーブルには色んなおかずが並んでいておいしそうに湯気を立てている。
「うまそう」
「こうやってお前と飯食うのも不思議だな」
にへっとあんまり可愛い顔で笑うから、またぐわっと堪らなくなってナツを抱き寄せると首筋にぐりぐりと頭を擦り付けた。ふさふさの耳がくすぐったいらしく、笑いながらやめろよと言う。でも本気で嫌ではなさそうだったからグレイはやめなかった。
「なあナツ。オレ、ずっとここにいてもいいか?」
ナツの首筋に顔を埋めたまま聞く。
人の姿になったんだだから、身体が大きすぎて近所に怖がられることもないだろう。
もう犬じゃないから、だから、傍に。
「いいに決まってんだろ。お前が他のとこに行くのが嫌だって分かったから、オレだって手放したりしない」
「ん」
「た、ただしもう、こここ交尾とかっ何とか、意味分かんねぇこと言うなよっ」
「……わかった」
「おいなんだよその不満そうな顔」
「……嫌だけど我慢してやるってことだよ」
大いに不満なところを我慢するのだから、顔を逸らす位許してほしい。
でもこんな自分を受け入れてくれたのだから、それくらいの我慢何てことはない。いや、かなり辛いとは思うが。それ以上に、ナツの傍に居たいから我慢しよう。
ぎゅうっとしっかりナツを抱きしめながら、グレイはこの幸せを噛みしめていた。