オリジナル

□優しい声
1ページ/2ページ

「そこで、何をしている」

 その声に、童女は振り返った。
 そこには少年が、仏頂面で立っていた。
 黒い髪に、深い色合いのアンバーの瞳。
 少女より、七歳ほど年上だろうか。

「お花を見ていたの。いけなかった?」
「・・・かまわない。でも、薔薇の棘は危ないんだ」

 少年は複雑な心境を隠すようにそう言った。
 そして、花壇に咲いた花々を見やる。
 二人は庭園にいた。
 花壇の向こうには、温室も見える。

「ねぇ、私ね、いつかケッコンするんだって」

 童女は言う。
 五歳かそこらの女の子から出てくるとは到底思えないような、深刻そうな口調だった。

「私、あなたのことがすきよ」

 え、と中途半端な声を出して、少年は童女に視線を向けた。
 童女の頬は朱に染まっている。
 
「まっててほしいの、私がケッコンできるようになるまで」

 
 薔薇の芳香が強まった。
 霧雨が、降り出したようだ。






 目を覚ますと、視界は白で覆われていた。
 目に映る景色が白いのではなくて、目の上に何か白い布・・・包帯を、巻かれているようだ。
 長い間巻かれていたものか、蒸れて不快だ。
 結び目などは考えず、端っこから帽子を脱ぐようにずるっと外した。
 酷く静かだと思ったら、さわさわと人の動く気配がする。
 目の前に広がったのは、それなりに広い、どこかも分からない部屋だった。
 きれいに整っている。
 頭が痒い。首が痒い。
 堪えきれずにぽりぽりと掻くと、白いふけや垢が、薄い青のパジャマの上に散った。
 ぞっとした。そうっと腕を見てみると、肌の上に垢が、今にも剥がれ落ちそうな様子で付着している。
 真っ白だったはずの肌は、そのせいで浅黒く見える。
 きたない。すごくきたない。

「お風呂に入らなきゃ」

 ベッドから降りると、バルコニーに繋がっているらしい窓から、青空が見えた。
 どうも、時刻はまだ朝らしい。
 薄い青は、寝起きの目にじっと沁みる。
 いや、とりあえず、そんなことはどうでもいいのだ。
 一刻も早く、ふけを、垢を、落とさなければならない。
 この部屋の唯一のドアを開くと、長い廊下に出た。
 絵画や剥製が、壁にずらりと並んでいる。
 少し先を見ると、メイドが一人、石膏像を磨いていた。

「ちょっと、ちょっと、そこのあなた」

 私がそう呼びかけると、そのメイドは目を丸くして、あっと叫ぶと、とっとと走って行ってしまった。
 その途中、像を磨くのに使っていたバケツを、盛大にひっくり返し、雑巾を放り出したので、廊下は燦々たる有様だ。
 呆れてため息をつきながら、私は一人でバスルームを探すことにした。
 しかし、結局、私が眠っていた部屋の隣を開けようとした瞬間、さっきのメイドが何人もの人を引き連れて戻ってきて、私をもといた部屋に引っぱりこんで、無理やりベッドに押し戻した。
 その大勢の中にはお医者様がいたらしい。
 私に向かってさまざまな質問をしてくるけれど、大勢に寝間着姿を見られて恥ずかしいのと、お風呂に入りたいのを邪魔されて不機嫌な私は、その全部にだんまりを決め込んだ。

「まあ、まあ。そんなに急き込んで聞いたら、彼女も困ってしまうよ」

 何も言わない私にお医者様が苛苛としているのを見かねて、大勢の中の一人が言った。
 太って丸いお顔に、少し生やしたあごひげ。優しそうな顔だけど、目はなんだかぎらぎらしている。

「君は、何が気に入らなくて、そんな仏帳面をしているんだい?」
「だって・・・お風呂に入りたくて。ふけだって垢だって、きたなくってひどいんです」

 私は言って、またぽりぽりと首の周りを掻いて見せた。
 やっぱり、ぞっとする。

「・・・メイドに世話をさせよう。おい」

 もう一人の男が、ベッドから一番離れたところからそう言って、メイドを呼びつけた。
 なんだか、その人が喋った瞬間、集まっている人の顔が険しくなったみたいだ。
 大人の事情は、私には分からないけれど、雰囲気がどんなかは分かる。
 きっとみんな、この男の人が嫌いなんだな、と私は思った。
 メイドを呼んでくれた男の人は、他の何人かより、ひと回り若いみたいだ。
 黒の短髪はいたる方向にぴょんぴょん撥ねていて落ち着きが無い。
 彫が深くて、深い色合いのアンバーの瞳は、鋭い光を放っている。
 ちょっと、怖い。
 すぐにバタバタと、三人メイドがやって来て、私の手を引いて廊下を渡り、階段を下りた。
 道すがら、エントランスを抜けた。
 螺旋階段が二つある、広い広いエントランス。
 床は私の顔が映るほど磨きぬかれた大理石。
 聖母マリアのステンドガラス。
 小さな白塗りのテーブルがいくつか置かれていて、その上では白磁の花瓶に大輪の薔薇が幾つも咲いていた。
 私の家は周りの家よりずっと大きくてお金持ちだけど、この家の半分くらいしか広さはないだろう。
 やっぱり豪華なバスルームに着いてから、私の服を脱がせたりなんだりしてくれるメイドに、そっと尋ねてみた。

「ねえ、ここはどこなの?私、なんだか、ずいぶん長い間眠っていた気がするわ」

 メイドは揃って、困ったような顔をした。

「旦那さまが、直にお話してくださいますわ」
「そう」

 人のお家のメイドを困らせるのはあんまり良くない事だと思った私は、それ以降口をつぐんだ。
 メイドたちはふけのこびりついた私の髪を三度洗い、雲のように細かい泡がたくさん立った湯船の中で、しっかりと垢を擦り落としてくれたので、バスルームから出たときには、すっかり気分が良かった。
 私の髪を拭いていたメイドが、自慢のブロンドを「綺麗なおぐしですね」と褒めてくれたのも、とても嬉しかった。
 メイドが持ってきた服はあんまり私の趣味に会うものじゃなかったけれど、気分がいいので、文句を言わずに着た。
 お友だちのロブが、いつもこんな感じの服を着ていたっけ。
 フリルが着いていない、布の厚い感じがする、ベルベットのワンピース。
 上品な深紫色は、やっぱり私が普段身に着けない色だ。
 それから丹念に拭いて乾かした私の髪を、メイドたちは楽しそうに巻いてくれた。
 理由を聞くと、女の子の世話を焼いた事が無いので、綺麗にして差し上げるのが楽しいのでございますよ、と、一番年上らしいメイドが嬉しそうに言った。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ