□つみびと
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「先生」当時のぼくはあなたをそう呼んでいた。

「また来たのか」あなたはいつもそう言ってぼくを迎えた。

あなたの美しい手指がさしだした体温計でぼくは熱を計った。熱は、いつも高かった。あなたの眉根が潜み、「寝ていくか?」と甘い声が言う。ぼくはとろけそうになりながら頷いて、白いカーテンに仕切られたベットへと横になる。
あなたはやさしくカーテンを閉め、その向こうで仕事をした。ときおり聞こえてくる控えめなくしゃみや咳がぼくの胸をくるしめた。ぼくを気遣うあなたの一つ一つの動作が尊く、手放し難く感じた。

ある時、いつものようにカーテンを閉めたあなたは、席に着くことをしなかった。カーテンを握りしめたまま、その向こうに佇んでいた。うすく浮かんだシルエットに向けて、ぼくは言った。


「先生」


それだけだ。
それ以外、ぼくたちは言葉らしいものを交わさなかった。
あなたに握りしめられたカーテンの皺。それは、ぼくをいざなう光の形をしていた。だからぼくは、その中に飛び込んだ。
光は裂けて、その中には、途方にくれたような顔をした人がいた。ぼくは背伸びをした。なぜだか、その時だけは、あなたを上から見下ろさないといけないような気がしたのだ。
あなたの口が開いて何か言おうとした。たぶん、ぼくを制し、自分を制するための言葉だ。ぼくは、無駄だよと言いたかった。
もう、何もかもが遅い。始まってしまったんだ、と。
唇が重なった時、あなたはちいさな声をあげた。それは悲鳴のような声だった。とまらない心に対するものだったんだと思う。ぼくもそうだった。二人の体が触れ合った刹那、ぼくたちは急降下をはじめた。果てしのない高さから、果てしのない距離を落下していった。そして今も落ち続けている。いつか地面が現れてしまったら、ぼくたちは叩きつけられ、木っ端微塵になるだろう。それでもぼくたちは落ち続ける。何億光年先の星みたいに、ぼうぼうと炎上しながら。





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