他
□こいし
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【こいし】
年に一度しか会えないのなら、いっそ殺してください。
お互いが好きすぎて、ひとたび抱き合えば、坂を転がる小石みたいに、恋しい気持ちの加速度がどんどんついていって、もう二度と離れられない。そんな恋を、俺たちはしているのです。
ものすごい勢いで坂を転がり続けている俺たちには、お互いのことしか見えないのです。
だからごめんなさい。仕事や、やらなければいけないすべてのことが、目に入らなかったのです。
というのは言い訳です。でも俺は、赦してほしいから述べたのではありません。
ただ惚気たかったんです。俺たちを一年も会わせないきまりを作ろうとしているあなたに。
きっとあなたには永遠にする機会のない恋について。特別に話してあげたんです。
俺は、あの人と年に一度しか会えないのなら、いっそ殺されたほうがいい。ということはつまり、あなたは俺に、死ぬよりひどい罰を与えようとしているということなんですよ。
今年もまた、ずいぶんたくさんの笹が集められたもんだ。
俺は天の川に身を乗り出して、川底に映る下界を眺めている。笹にくくられた短冊がさらさらとゆれている。「ますように。」でくくられたたくさんの願い。たどたどしい子どもの字。星マークで彩られた若い女の丸文字。老人の墨字。若い男の薄く細い文字。それらは水底に生える川草のようにゆれている。
俺の願いも短冊に書いて笹にくくれば、いつかは叶ってくれるだろうか。
一年。その永さは、計れるものではない。
最後にしたキスの味も、交わしたはずの言葉も、あの熱情も、幻のようだ。そのくせ、いつでも手の届くところにある。だから俺はふとした時に思い出す。確かにあったはずのものを幻として思い出す。だって、今ここにはないから。今ここにないものはすべて幻影だ。
俺を呼ぶ声。俺に触れた手。唇。首筋。鎖骨。胸。腹。下腹部。性器。足。爪先。もう、あんたそのものが幻になりかけてる。ほんとうにいたんだっけ。俺たちはほんとうに愛し合ったんだっけ。他の事物が手につかなくなるほど熱烈に互いを求めたんだったっけ。
俺の頬からすべり落ちたものが一滴、水面におちる。ちいさな波紋が広がっていく。その模様を目で追っていたらそこに、小舟の先端があった。それは、滑るよう俺の前に現れた。
川の向こうは、霧がかっていて見えないのだ。だから小舟は、ほんとうに突然俺の目の前に現れた。
船に乗っていたのは、一人の男だった。
呆けたように俺を見ている。
男と目があった俺は、記憶喪失の人間が、一瞬にして何もかもを思い出した時のような鮮烈な感覚に陥った。
俺は、一目で恋に堕ちていた。幻だと思ってきたものが、今ここにないと嘆いてきたものが、すべて、目の前にあった。
男は、俺と見つめ合ったまま船から降りた。そして俺の元まで来ると、膝から崩れ落ちた。天の川岸の砂が、男の体をすっと受けとめた。
その時男は何を言ったのか。俺は何を言ったのか。気が付くと俺たちはお互いの体に必死にしがみついていた。それは、抱き合う、という行為とは程遠いものだった。一瞬でも気を抜いたり離れたりしたら、もう二度と会えない。そんな宿命を孕んだ触れ方だった。
俺は男の着物をちぎれそうなほど握りしめた。そうしながら、強く感じていた。俺たちの体に、そして心に、加速度がついていくのを。
『年に一度しか会えないのなら、いっそ殺してください』
俺たちを咎め、罰を与えたその人に、俺は言った。しかし、俺の懇願は受け入れられず、俺たちはすぐさま引き離された。
一年。俺たちの間には、いつもそれだけの距離がある。
今、触れているところ全部を縫いつけてしまいたい。着物どうしも、肌どうしも、心どうしも、かたくきつく糸で織り合わせたい。俺がいつもしてるみたいに。何重にも何重にも縛り付けて、もう、誰にも引きちぎられることのないように。
「総悟」
ああそうだったあんたはそうやって俺の名を呼ぶんだった、なんて、そんな感慨ほしくないんだ、そんな感慨抱けなくなるほどしつこく呼んでいてほしいのに抱きしめていてほしいのに、俺はきっと、あとひと月もすれば、この時のことを信じられなくなる。本当にいた人で、うけた感覚で、あった感動だったのか、わからなくて不安になる。それで次の瞬間にはもう、幻になってるんだ。
「いなくならないで」
「ここにいて」
「こうしていて」
「ずっと」
「おれから、離れないで」
お願い。
世界中の笹の葉を集めるよ。指がすりきれるほど短冊も書く。毎晩眠らずに星にだって願うから。
俺から、この人をとらないで。
「いなくならない」
「ここにいる」
「こうしてる」
「ずっと」
「おまえから、離れない」
俺の顔を覗き込んだあんたは、俺にキスをした。それは、長く、永い、永遠だって短く感じられるほどのキスだった。
End(2019.7.7)