創作物

□傷
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アシェンバート家当主の執務室には、たくさんの書籍がある。どれもすべてエドガーが集めたものだ。彼は自分の教養を高める努力をすることに、少しもためらうことはない。時間さえ許せば、様々なジャンルの書物を読みふけっていることだろう。若き伯爵が社交界で力を持つためにも、どんな隙もつくってはいけないのだ。
 知識の豊富さは決して彼を裏切ることはない。そういった部分もきっと彼の力となっていく。たいせつなものをこれ以上奪われないように。どんな敵にも負けない力をエドガーが欲していることをこのロンドンの社交界で誰が知っているというのだろうか。

 リディアはエドガーが新しく手に入れたというスコットランドの歴史の本を借りるため、執務室にやってきた。大きな机には本が山積みで、何やら書類も散らばっている。
 僕がいてもいなくても、君なら歓迎さ。とエドガーは冗談混じりで言っていたことを思い出して、多少遠慮しつつも、訪ねてきたのだ。
 エドガーが留守中なのは知っていたが、リディアはどうしても彼の存在を感じてしまう。ふわりと、慣れた彼の香りが鼻腔をくすぐる。けっして嫌味のない程度に、それでも存在感を強調する彼の香り。普段、一緒にいるとあまり気づかないが、一人になると彼の香りは存在感をまして、リディアに襲いかかるのだ。
 ふぅ、とリディアはため息をつくと、書棚に目をやった。
 ようやく目当ての本を見つけて手に取ると、ぎっしり詰まった本と本の隙間から、するりと紙切れが滑り落ちた。
 それはリディアがエドガーに宛てた手紙だった。彼と長い間離れておくべきだと思い、強引にスコットランドの実家に帰ったときのものだ。何通ものエドガーからの手紙に困り果てて、ようやく返事を書き上げ、彼に送ったものだ。とりとめのない内容ばかりだ。スコットランドの天気や、妖精たちのこと。彼が望んだ甘い言葉も、何もない簡素なもの。
 どうしてこんなものが…。
それを拾おうとすると、手紙はふたたび、リディアの手から逃げるように舞った。その動きはまるで、手紙がリディアをわざと避けるようなものだった。その動きが不信に思えたリディは、目を凝らして手紙を見つめた。
 そこには妖精の糸が絡み付いていた。視線をそのままに糸の先を辿ると、見慣れた妖精の顔がちらりと覗いた。ソファの裏に隠れていたらしい。
「あなた、なにをしているの?」
 ソファに近づくと、妖精はリディアの顔をみるなり、姿を消した。
 どういうこと?なにかの意図があるのかしら…。
 何か変わったことがないかと、リディアは手紙を拾い上げた。


 ロンドンの霧深い夜をニコは一人さまよっていた。夜も遅い。道を行き交うものはほとんどいない。
 しまった。見失っちまった。
 ニコは自慢の尻尾をピクリと揺らすと、そこから糸を引っ張り出した。その先はロンドンの闇に溶け込んでしまい、何も見えない。
 ニコは妖精の道を開くと糸をたどって歩き出した。きっとこのほうが近道だろう。
 はやく伯爵に追いつかなければ。
この先何が起こるかはわからないが、リディアを裏切るようなことがなければいいのに…とため息をついた。

 「ニコ?いないの?」
 いつも彼がいそうなところを覗いては、呼びかける。
 ほんとうにいないみたいね。
 伯爵家の妖精がエドガーの執務室にいるのは不思議なことではない。けれど、先程のことはただのイタズラには思えなかった。あの妖精はリディアをみて姿を消してしまったため、おそらくリディアの呼び掛けには答えないだろう。
そこでニコの力を借りようというわけだ。いつも妖精を集めては、宴会を開いているニコだ。伯爵家の妖精たちの信頼も厚いはずだ。
 いくら声をかけても、ケリーに聞いてもその姿を見つけることは出来なかった。きまぐれな彼らしい。また明日のティータイムのころには、ぽっと出てくるだろう。
 リディアは仕方なく独りで夕食をすますことにした。



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