□古傷に突き立てたナイフは
1ページ/1ページ




「え…?」

視界が急に傾いた。
目の前には白い天井がいっぱいに広がっていて、背中にも柔らかい布の感触がある。亘に押し倒されたと気付いたのは数秒遅れてからだった。

「な、に してんだよ、亘…」

腹の少し上にある亘の表情はいつもと何ら変わらないもので、冗談なのか本気なのかわからず混乱する。

「…だって、美鶴がアヤちゃんの話ばっかするから、」

嫉妬しちゃった、と続く言葉使いに普段の亘を感じ、少し安心した。

「だからって押し倒す意味がわかんないって。とりあえずどけよ、」

「………」

少し強い口調で言ったにも関わらず、亘が体重をかけている両手を退ける気配はない。

「亘…?」

やはりいつもとどこと無く違う亘の顔を覗き込む。対して亘は僕から目を背けたまま、消え入りそうな声で呟いた。

「ね、シよっか?」

突然のことに固まったが、その言葉を脳が理解してすぐに、ふざけんなと怒鳴る。残念ながら不利な体勢のせいで掴まれた腕を振りほどくことはできなかった。

「…嫌?」

頭に血が昇っていたことと、いつも通りの亘だと思い込んでいたこととがかさなって、僕はこの時の亘の表情に気付いていなかった。
抵抗する腕に力を込める。

「なんで、」

そんなやり取りを続けていると、不意に亘が呟いた。え、と思う間もなく身体の両側にあった腕が頭上で一纏めにされる。そこでやっと亘を覆う異様な雰囲気を確信したが、もう遅かった。
亘は右手で僕の腕を抑えたまま左手で机の上を探る。缶の筆立てにシャーペンやら鉛筆やらが当たってがらがらと音をたてた。

目当ての物を見つけたのか亘がこちらを振り返る。ひたりと首筋に当てられたそれに恐怖が込み上げて、思わず咽が鳴った。

「抵抗しないでね。このカッター、刃 換えたばっかだから切れやすいんだ。」

先ほどよりも少し強く刃を押し当てられて身体が振える。亘は構わずにカッターを徐々に下へと移動させていった。

「亘、っ」

僕が呼んだのとほぼ同時に着ていたTシャツが真ん中から裂かれる。時折肌に触れる無機物の冷たさが怖くて仕方なかった。
びっ、と音をたてTシャツを真っ二つにしてから、亘は小さく振える俺に気付く。
俺とカッターとを交互に見てから、ああ
と、見たことのないような嫌な笑みを浮かべて言った。

「まだ刃物とかはダメなの?あの時を思い出すから?」

「っ……!」

あの時

わざわざ強調するように言われたその言葉に、事件直後の自宅の様子が鮮明に脳内に浮かび上がった。

玄関に幾重にも張り廻られた黄色いテープ、割れた食器の散乱するキッチンに べったりと紅く塗り潰された妹のスケッチブック 
と 血の匂い


せっかく忘れていたのに

「…や、嫌だ、……っこんなの、思い出させんなっ…」

顔が歪んでいくのが自分でもわかった。
縋るように見上げた亘の顔は先程と何ら変わってなくて、頭の中が真っ白になる。

「わ、わた る」

それでも名前を呼ぶと、押さえ付けていた腕さえあっさりと解放された。まるで縋るなとでも言わんばかりに。

「っ亘、なんで、」

離れて行った右手を追うと、存外抵抗もされず捕まえられた。

「なんでって、嫌だって言ったの美鶴だろ?」

あからさまに不機嫌な顔をして右手は振り払われる。それによって開いた十数センチがとてつもなく深い溝に見えた。

「…じゃ、ない、」

「なに」

「嫌じゃないから…っ 一緒にいて亘、」

ひとりにしないで と付け足してから彼の方を向けば、亘はいつもと同じように笑っていた。
それから何事も無かったかのようにぎゅう と僕を抱きしめる。
腕を亘の背に回したのと同時に、ついさっきまで埋もれていたベッドに倒された。

「…亘、」

「嫌じゃないんだよね?」

それでも渋る僕を叱りつけるような口調で確認をとる。強く言われたそれに抗えるわけもなく、僕は小さく頷いた。


亘は無言のまま、裂いたTシャツの隙間から手を忍ばせる。
つ、と腹をなぞられて思わず声が洩れた。
慌てて掌で口を押さえると、空いている方のてでやんわりとそれをどけられる。

「大好きだよ、美鶴、」

そう言って口付けられた亘の唇は柔らかくて優しくて、一雫目から零れた。頬を伝うその感覚を感じながら、僕も と、背に回した腕に力を込めた。



         



















古傷に突き立てたナイフは


ひどく甘い香りがした。








,
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ