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□てのひらを たいように
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今日の仕事もなんとか定時に終わり、机に突っ伏していた。
目の前には愛しの秘書が苦労を労う為に用意してくれた林檎がある。俺は綺麗に切り揃えられたのそれの隣りにある、刃がきらりと光る果物ナイフを眺めて居た。
鋭利な切っ先が自らのすぐ目の前にあるというのに恐怖は全く感じない。それは死なないからだとかそんな特殊な理由ではなくて(死なないにしても痛いものは痛いし)、恐怖よりも前に好奇心が出て来ていたからだった。

既に脳みその中ではシミュレーション済みだ。

小さな果物ナイフの尖った先が、心臓の上の皮膚を突く感覚。それからぷつりと皮を割って体内に入って、進んで、肋骨やら筋やらにぶつかりながらもどくどく動く筋肉の塊にたどり着く。
特に自傷行為に興味があるわけでも無い。俺の好奇心は、どちらかと言えば精神的な所よりも肉体的な所にあった。生き物の身体を切り開いて、ああ、ここってこんなになってんだあって、それに近い。地上にだって生き物の身体を切り開いた挿絵の書物があるのだから、別に何もおかしくなんてないだろう?


と言うわけで早速実験を始めようか。


さんざ思考した挙句手にしたナイフは、柄の部分さえもひやりと冷たくなっていた。
外へ向いていた刃を自らの方へ直す。鋭い切っ先を胸の真ん中に当てるとちくりと痛んだ。
その小さな痛みに構わずナイフを体内へ進める。と同時に傷口からは血液が溢れて来た。
今までに幾つも罰を受け痛みに慣れたとは言っても、客観的に自分が痛めつけられるのを見たことは無かったので段々と刃が皮膚の下へ入っていく光景には若干恐怖を感じた。
それでも視覚を閉じ感覚を研ぎ澄ませると、そんな感情はすぐに消え失せる。慣れた感覚だった。息苦しくて頭が上手く働かなくなる。痛くない訳ではないがこれよりももっと痛いことが習慣化しているので特に何ということもなかった。
存外スムーズに進んでいた刃が不意に行く手を阻まれる。何に当たったのかは解らない。また今度人体について詳しく調べてみようと思う。
身体の中の方で止まってしまったナイフには、もう元の冷たさは無くなっていた。手から肘に掛けてはべっとりと赤黒い血が付着している。進路を変更させようとナイフを引き抜こうとするも全く動かなかった。
何故 と疑問に思った瞬間、身体はぐらりと傾き床に倒れた。
一瞬困惑したものの、床に広がる赤を見て出血多量の文字が頭に浮かぶ。そう思ってみると目の前が暗くなってきたような気がする。寒いし力は入らないし、依然として血は止まる気配はない。

ゆっくりと俺は瞼を閉じた。

























ちくり

貫いた胸に残る小さな痛みで俺は意識を取り戻す。目を開くと容赦なく降り懸かる白熱灯の光で目まで痛んだ。
それに気を取られて自分が不慣れた真綿に沈み込んでいるのに、一瞬気付かなかった。

「お目覚めですか」

声のする方へ視線をやると見慣れた秘書が、これまた見慣れた怒り顔で立っている。

「あー、ごめんね鬼男くん」

瞬時に自らの行動を思い出す。
隣に置かれた机には俺の身体を拭うのに使ったであろうタオルと桶が見えた。
ナイフを突き立てた場所を触ると厚いガーゼが当てられている。


「すごく手間かけさせたみたいだね。」

苦笑しながら言うと、鬼男くんは更に眉間に皺を寄せる。

「そう思うならこんなことしないで下さい。床に溜まった血を片付けるのも骨が折れましたよ」

「甘いな。俺は骨折なんて生易しいもんじゃないぜ」

「いっそ手足引きちぎってスルメにでもすれば良いと思います」

「イカ前提で話すのそろそろやめない?」

そういつものように戯れるが、やはり鬼男くんの何処か怒っている雰囲気は払拭されていなかった。

「もーいつまで怒ってんのさ。別に…あ。」

文句を言いながら固いベッドから起き上がろうとするが、少し身体を傾けたところで再び床につく。安っぽいスプリングが大きくギシリと鳴った。

「どうしました?」

鬼男くんが先程とは打って変わって心配そうに覗き込んでくる。俺が寝てる間もそんな風だったのかと思うと可愛らしい。

「目眩がする」

そう言うと小気味の良い音をたてて頭を叩かれた。
やっぱり可愛くない。

「ったあ!怪我人の頭を叩くかな普通!」

「自業自得だ馬鹿野郎!血出し過ぎてんじゃないですか!」

「仮にも冥界の最高権力者に向かって馬鹿野郎って君…」

「脳みそまでイカだと思いませんでした。何か血になりそうなもの貰ってくるんでちゃんと食べてくださいね」

言うが早いか、鬼男くんはさっさと部屋を出て行ってしまった。
行動の早さにばたんと少々乱暴に閉められた仮眠室の薄い扉を、呆気に取られながら眺める。
眺めながら綺麗に切り揃えられたまま食べることのなかった林檎のことをふと思い出していた。
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