-小説-

□香幽世
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起きて見るのは現(うつつ)の夢か

はたまた悪しき黄泉の宴か




香 幽 世  ――かおり かくりよ――



 蝋燭に火をうつすと行燈の灯を落とした。

外は月が出ているから灯がなくとも座敷はぼんやりと辺りが見渡せる。

手元の香皿に眼をやる。細く、練られた線香に火を付けると、ゆらりと白く糸の様な煙が立ち上った。
深い、幽玄で濃密な白檀の芳香。辺りの闇も一際密度を増す。

煙は風のない部屋の中でも幽かにたなびいた。肌には感じられずとも、空気の動きは僅かながらあるらしい。
緩い線を描いて白い煙は天井へ流れ、やがて拡散する。

遊左(ゆさ)はじっと其の暗闇を見つめた。

辺りは薄く白濁する。
濃淡を付けながら其の密度は部屋のところどころで異なる。

粒子状の煙が、闇から幻を呼び覚ます。
現世(うつしよ)の闇から幽世(かくりよ)の闇へ、其れは紡がれ繋がりあう。
匂いも煙も流れ染み出る。畳の目にも布団にも、着物や人の中までも。

 遊左の視線の先は何もない闇だったが、やがて其れはゆっくりと揺らめいた。目の前がぼんやりと薄明るくなる。

 現れたのは遠く、どこか見たようで一度として見たことのない谷だった。

 山に囲まれた其の谷には、浅い川が流れている。全体として霧が掛かったような朧げな景色。遊左が手を伸ばすと、其処から霧が流れてくる。ほんのり冷ややかな其の感覚に心奪われた。

 ぱしゃん、と微かに水音が聞こえた。

 いつ現れたのか、対岸の浅瀬を女がこちらへ渡って来る。
濡れたような真っ黒で麗しい髪。黒目がちな瞳。紅い唇は瑞々しく果実のように透明で、この世のものとは思えないほどの美しさである。

女は遊左を見つけると、なんだかとても嬉しそうに優しく微笑んだ。
遊左の躯(からだ)は知らずに中へと引き込まれる。白い闇が溶け出して肌に染みていく。

想った。

嗚呼。

俺は今生きて浄土に居る。





「――で、凄ぇ別嬪が対岸から笑いかけてくると?」

「然(そ)うだ。驚いたろう。正直俺も驚いた。闇で香を焚けば幽世に繋がると聞いたんだが、其の話だけでも信じるに足らんと思っていたのに、あんな別嬪が俺に笑いかけてくるとは」

 遊左は怪訝そうな顔をする蘇芳(すおう)に酌をしながら笑った。
そりゃあ御前ぇなんかの間違いだろうと蘇芳は肩を竦める。

「どこをどう間違ったら御前ぇにそんないい女が笑いかけてくんだよ。――大体アレだろ、たかだか香なんかで幽世が見れるかよ。幽世ってのは死んだやつらがいくとこだ。御前ぇが見たのは唯の幻だろうよ。御前が然うあって欲しいと思うことが夢みてぇに出てくるんだ。香具師(やし)に騙されたンだよ」

 大分傾いた月を見上げて注がれた酒を一気に呷った。
蘇芳の金の髪が細く月光に透ける。遊左は自分の分も酒を注いで、隣に座る酷く俗な美しい異人を眺めた。

「なんだ蘇芳。羨ましいのか?――なんだったら御前も試してみるといい。ありゃあ幻なんかじゃねえ。空気の温度も音も匂いも、ちゃんと肌に感じるんだ。――御前だったらもっと乗ってくると思ったンだけどな。見たら絶対口説きたくなる」

「抱けねえ女に興味はねえよ。――御前、如何でも良いがあんまり変なモンに夢中になんなよ?菊の野郎も心配してたぜ。御前ぇはすぐ如何(いかが)わしいモンに引っかかるからってよ」

 菊之丞(きくのじょう)がか?と遊左は聞き返した。
賭博仲間の中では蘇芳と同じくらい親しくしている悪友である。
然う云えば奴には此の所会っていないが達者で居るのだろうか。

然う訊くとあいつぁ風邪で臥せってると蘇芳は云った。

「長患いの労咳(ろうがい)もあるからな、拗(こじ)らせなきゃあいいんだけど。あんまり良くはねえようだぜ。御前も今のうちに一回くれぇ会いに行っといた方がいいかもしれねえ」

 縁起でもねえと遊左は呟いた。本当の話ならそっちの方が余程心配だ。遊左が俯くと蘇芳は其れより御前ぇは御前ぇのこと考えろと戒めた。

「――仮に其れが本当に幽世へ繋がるとしても、現世の人間が関わっていいものじゃねえだろ。――其の女だってどんなモンだか分かりゃしねぇぞ」

「――ああ。――分かったよ、気をつける」
 遊左が然ういうと良し良し、と蘇芳は腕を組んで納得した。なんだかちょっと偉そうな其の男に、遊左は少しだけ笑った。
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