-小説-
□僕は白い家に住んでいる。
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僕は白い家に住んでいる。
無機質で硬質な、でもそっけなくはない四角い二階建ての家だ。僕はそこに一人で住んでいる。
朝起きると、僕は階段を下り、ダイニングを抜けた先のリビングへ行き、薄緑とレースのカーテンのかかった窓の前に置かれたサボテンに挨拶をする。
サボテンは、小さな机の上にちょこんと乗っている。
とげとげしているくせに、まあるくて、どこかかまって欲しいような視線をおくってくる、なかなか可愛いやつだ。
僕はそいつが好きだから、こうして毎朝挨拶をする。そうすると、おはよう、と、心の中で返事が返ってくる。
今日は天気が良いので、窓を開けて換気をしてやることにした。
僕のノートのペーパーウェイトの仕事も時々してくれるから、これくらいはしてあげないと。
僕は朝食をとる。
トーストを焼き、冷蔵庫からバターを出してきて、お湯を沸かす。
階段下の棚に、たくさんの調味料と紅茶、コーヒーが置かれている。
僕はそこからアールグレイを取り出す。
紅茶が出来たらその中に苺のジャムを落として、ベーコンエッグとトーストを食べる。
ラジオをつけると、エリック・サティのジムノペディがかかっている。
僕の世界は、こうして、昼間存在している。
朝始まり、日が沈む頃はわからない。
僕は、日の光の中で生きている。
誰かに、会うこともない。
僕が、この曲をサティだと知っているのは、僕の家にそのCDがあったからで、紅茶がアールグレイだとわかるのは、そうパッケージに書いてあるからだ。
僕は朝起きて、サボテンに挨拶をし、朝食を作り、家の掃除をし、洗濯をし、庭に水遣りをする。剪定もする。
それが終わったら、リビングの窓際の机で少し思ったことをノートにつづり、二階にあるたくさんの本を読んだり、外を眺めたり、少し歩いたりする。
仕事をしているような気はしない。
僕は、家のことをするけれど、お金を稼ぐようなことはしていない。買い物に出かけることも、ない。
誰にも、会っていないのだから。
けれど、家には、きちんと冷蔵庫に、いつも食料がある。生活には、少しも、困らない。
何故だろう。
わからない。
僕の生活は朝から始まり、終わる頃は、覚えていない。そして、また朝から始まる。
僕は、日の光の中で生きている。
朝食を終えて外に出ると、黒猫が一匹歩いていた。よく、この近所を歩いている猫だ。
名前はない。野良猫だ。誰かに名前をつける権利は、僕にはない。なので、そのまま、猫、と呼んでいる。
僕は彼に、昨日のキッシュの残りをやった。彼はキッシュが好きだから、僕はよくそれを焼く。彼のために作っているような気もする。
庭のプランターに植わったゼラニウムに水をやろうと思った。
あいつは、僕の居ないのをいいことに、放っておくと好き放題伸びる。それを見に行くのも僕の役目だ。
僕の家には、裏庭がある。
裏といっても、家の東側で、隣の家の駐車場も兼ねた、それなりに広いスペースだ。
西側が僕の所有地で、東側には隣家のトラックが停まっている。
北の奥には土管が積まれていて、見ると、知った顔がその土管の上に座っていた。
エルヴェ・ミラーだ。
エルヴェは、僕のつけた名前じゃない。だから、僕は彼を名前で呼ぶ。
彼は、この駐車場の半分を所有する、東側の隣人だ。僕は誰にも会わないけれど、彼とは、よく会う。たまたま居合わせる、という方が正しい。
僕が目配せすると、彼は片手を挙げた。真っ黒な髪に合わせたように、真っ黒な服を着ていた。
「水遣り?」
「うん。なかなか世話が焼けるんだよ。彼ら」
僕はホースを持ってきて、蛇口をひねった。ゼラニウムの隣の花壇には、水仙が植わっていて、その隣は木瓜だ。エルヴェは水仙を評価する。
「なかなか、綺麗じゃないか。品があるし。随分咲いたね」
「結構ね。でも、彼女、少しつんつんしてて、近づきがたい。ちょっとお高いというか。でもそのくせ、ほんとは淋しがりで、ああやってみんなで咲くんだよ」
「そういうところが、ちょっと、可愛いよ。隣は?木瓜?」
エルヴェは水仙の隣で赤い花をたくさん咲かせている花に目をやった。
「そう。あいつは、去年たくさん枝を切ったのに、巻き返すように咲いてるだろう?負けず嫌いなんだ。かなり。そういうとこが、ちょっと好き」
「君は水仙より木瓜が好きなの?」
「水仙も同じくらい好きだよ。彼女は、人に媚びない」
僕はそれぞれプランターと花壇に水をやった。それから、少し離れて立っている木蓮の根元にも水をかけた。
最近は、乾燥するから、一応。木蓮は大きな白い花を開かせていた。
「この木が一番の古株かな。威厳があるし。これがあるから、この庭は守られてるのかも。でも、僕は本当は、隣の小さなみかんの方が、好きだけどね」
「サボテンといい、君は小さいものが好きだね」
エルヴェは笑って言った。僕は一通り水遣りを終えると、彼の隣に腰掛けた。僕は、彼を見る。
オールバックにした、その前髪だけ、幾房か額に落ちていた。目は緑で、肌は白い。
まだ若い。彼が幾つなのか知らない。でも多分、二十五、六くらいだろう。僕は彼にしばしば遭遇する。けれど、詳しくは知らない。
何をしているのかも、生活も、交友関係も、全く知らない。
知る必要も、ないのだけれど。
それなのに。
僕は、彼を、どこかで、よく知っている。
何を知っているのか、よくわからない。
けれど、知っている。
彼は、僕に、よく似ている。
彼は煙草に火をつけて、僕にも箱を差し出した。白い指に、どこかで覚えがある。
「エルヴェ」
「エリック・サティは気にいった?」
彼は僕の言葉を遮って言った。少し振り返る。彼も僕を見ていた。その斜め横顔の輪郭線を、僕は、ここではない場所で知っている。
「サティ」
「一人で居るには、お誂えだろう」
そう、僕は、しばしば、一人だ。僕は、誰にも接触しない。
彼も同じ、一人なのだ。僕たちはいつも、一人、なんだ。
僕たちはお互い、よく似ている。彼も僕と同じ、孤独。
エルヴェは微笑んだ。僕も少し微笑む。
「エルヴェはいつも、突然僕の前に現れるね」
「それは、こっちのセリフ」
「嘘言うな。君が先に会いたくて出てきてるんだろう?」
「残念、淋しがりは君の方」
笑うエルヴェを置いて僕は立ち上がった。
「なんだよ、もう行くのか?」
「一緒にお茶でも飲まないか?オレンジペコーを入れてくる」
「いいのか?戻ったら、きっと、僕はいないよ」
「それでも、また来るんだろう?」
僕は片手を上げて家の方へ向う。彼の声が追いかけてきた。
「天邪鬼め。その紅茶を買ったのは僕だぞ?CD気に入らないなら、返せよ」
「君に返しても、意味ないし」
僕は笑った。エルヴェの不服そうな声がまだ少し聞こえた。
僕が裏庭に戻ってくると、彼はもう居なかった。
本当に、居なくなるものだな、と、僕は思った。
僕は手にオレンジペコーの入ったティーカップを持っている。
カップは、一つしかない。
僕は、本当は、解っていた。
本当は彼の事もよく知っている。
知らないわけがない。
僕は土管の上に腰掛ける。
オールバックの前髪の、落ちてきた幾房を払って、黒い服の袖を捲くった。トラックの停まった先の隣家を見る。そこは、とっくに空き家だった。
エリック・サティのCDを買ったのはエルヴェだ。オレンジペコーもアールグレイもエルヴェが買ってくる。
冷蔵庫を補充しているのも、日が沈んでから仕事をしているのも、彼だ。
一日の後半の僕は、しばしば僕に会いに来る。多分僕が、会いたいからなんだろう。
お互い一人じゃ淋しいから。似ていて当然の同居人だ。
紅茶を入れていて思い出したんだ。エルヴェ・ミラーは、僕の名前だ。