-小説-

□腕
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「なんか、腕がさぁ――」

彼は窓際の机で肘を突いて空を見上げていた。
その余りにもやる気の無い口振りから俺はてっきり暇になった彼がまたどうでもいいことを言い始めるのではないかと思った。

実際、やっていた微積分のプリントは既に放置である。
どうせ、腕が痛いとか腕の綺麗な女が好きとかそういう言葉が出るんだろうと想像していた。俺も宿題を写していた手を止めて彼を見る。

「這い回るんだよねー」

「は?」

彼は俺に視線を移した。

「なんか、夜んなるとさ、腕が這い回ってる気がするんだよ」

「何処を?」

「俺の身体の上」

それか。

俺は彼のエロ話に今までどれだけつき合わされてきたかしれない。
何人もの女の子を相手にしてる彼のこと、どうせ年上の女でもまた部屋に連れ込んでるんだろう。

こんな昼間から何を言い出すのかと思えば、結局そういう話がしたいだけなのか。俺は頭に手を当てた。

「なんだよ、夜這いか?」

「かどうかは不明だけどね。これがさー、まあなんとも言えないんだけど、妙に良い感じなのね。絶妙、っつうか、巧いっつーか」

「あーもういいもういい。お前のイロゴトはもう聞き飽きた。どうせアレだろ、お前が調教した女がサービスに来てるとかそんなんだろ」

「なら嬉しいけどさ。女の子かどうか疑問なんだよね」

「男!?」

「かもしれない」

「かもしれないってなんだよ」

彼はんー、と軽く首を傾げて、目を逸らした。だって、判断しにくいんだもん、と言う。

「それ、肘から先しかないからさ」

「――え?」

さらりと言ってのける彼はいたって平静だが、俺は瞬間なんとも言い得ぬ気持ちの悪い感触が背筋を這うのを覚えた。

彼は俺を見ると少しだけ唇を持ち上げて笑った。
俺はそれで、彼にからかわれたんだと悟った。

それから数日、彼はいつもどおり学校に来た。俺たちは会っても別段問題なくいつもどおり。
彼はそれっきり変な話はしないし、してもせいぜい最近見たAVの話とかで終わる。

しかし、じゃあな、と別れた5日目の放課後以来、彼は学校へ来なくなった。突然だった。

どうしたのだろうと思う。
俺は彼とは割り合い仲の良い方だったし、ほとんど毎日授業で顔を合わせていたから、来ないとなると少し寂しい。

風邪でも引いたかと思って携帯に電話したけれど通じなかった。珍しい。
彼は大抵肌身離さず携帯は持っているし、メールしても一日以内には必ず返事が来る。
それくらいマメなやつが、何度電話しても一切出ないということ事態なんだか妙だった。

学校にも連絡がいっていないらしく、無断欠席が何日か続いている。
担任が心配して家に電話したらしいが、留守らしく誰も出なかったそうだ。

彼の家と近いからという理由で俺は先生に頼まれて、放課後様子を見に行くことにした。

溜まったプリントと、菓子折りを持参して教えられた地図のとおりに行く。
彼とは親しかったけれど、家に行ったことはない。

俺は実際彼の家の前まで来て、少しばかり立ち尽くした。
正直、ちょっと驚いてしまった。
以前一戸建てに住んでいることを言っていたけれど、こんな立派な家だとは思わなかった。

それは路地の少し奥まったところにあった。
石の階段を上がると、かなり大きな門構えが窺える。
その先に石畳が敷いてあって、何坪あるのだろうと俺では想像できないほど大きな入母屋造の家屋が現れた。

丁寧に手入れされた松やらなんやらに、深い緑の影を落とす大きな池。ご丁寧に常夜灯まで設置済み。表札には「三神」と書いてある。間違いなく彼の家だ。

俺はあまりにも場違いな気分でそわそわしながら、慣れない家をきょろきょろと眺め回しつつインターフォンを押した。
こういうところは妙に近代的だ。

本当にここに彼が居るのだろうかと俺は心配になる。しかし、やっぱり帰ろうかとろくに考える間もなく曇りガラスの玄関の引き戸が開いた。

「――高瀬、どうした?」

「――なんだ、居るじゃん」

どうしてインターフォンに出ないで解ったのか不思議だ。
俺が持ってきたものを彼に見せると、ああはいはいと適当に納得してまあ上がれよと彼は中に促した。

彼に言いたいこともかなりあったけれど、とりあえずは仕方なく彼の後に続いて磨きこまれた廊下へ足を上げた。

こうしてみると本当に古い家だ。
障子や天井、畳。一つ一つに歳月を感じる。
造り上そうなのか、完全には中まで日が入らない部屋が幾つかあり、なんとなく陰気な感じがする。

匂いとか、染みとか、そういう気配がなんとなく重い。
中庭に面する廊下はガラス窓が入っていたけれど、やはり現代的な感じとは大分違っていた。

前を歩くTシャツ姿の彼に既に違和感を覚える。それでも彼は随分家に馴染んだ様子で滑りそうな廊下をすいすい先へ進む。

「お前、すげーとこに住んでんだな。超お屋敷じゃん。確かにコレなら女の一人二人、数日泊めても家の人にばれなそうだが」

その部屋数から俺はそう言った。
そして、そういえばこんな広い家で両親なんかはどうしているんだろうとふと思った。

上がっても他に人の気配は無い。まさか彼一人で暮らしているわけでもあるまい。そう言うと、彼は親は出かけてて暫く戻らないんだと言った。

「だから当分俺一人。まあ、一人じゃないときも、結構あるけど」

少し振り向いて笑う。
俺は、ふとこの前話していた腕の話を思い出してしまった。
確かに、この古さの家ならば、多少変なことも起こり得そうな雰囲気だ。

肘から先しかない、という彼の言葉を思い出して俺はまたぞくぞくと背筋に鳥肌が立つのを感じた。学校で聞いたときよりもなんとなく生々しい。

俺は客室と思われる一室に通されて座布団を出された。
彼は茶を入れてくると言って数分離れたが、すぐに戻ってきて俺の向いに座った。

立ち上る玄米茶の香りが少し落ち着く。家に圧倒されてすっかり言うのを忘れていたが、もともと彼の様子を見に来たのだった。俺は思い出したように言った。

「お前、そういえばどうしたんだよ、急に来なくなって。先生も心配してたぞ。どっか悪いのか?そうは見えないけど」

「ああ、うん、それね、別に身体はなんともねーんだけどさ。色々あってさ」

はは、と笑う。
なんともないならなんで、と言おうとしたところへ、小さく、ととと、と音が聞こえた。

俺は咄嗟に音のした方へ目をやる。天井裏からだ。少しの間、俺も彼も天井を見上げて黙った。僅かの沈黙。

「なんだ?鼠か?」

「――まあ、似たようなもんさ」

俺の視線を気にせず彼は茶を啜る。鼠にしては妙に音が軽い気がする。
俺は、やっぱり気になって、なんとなしに彼の言っていたあの話を持ち出してみた。

「アレ、冗談なんだろ?」

彼は黙って茶を啜っている。その静寂がなんとなく怖い。彼は湯飲みを置くと、お前も聞いたろと言った。

「――家に居ついたみたいなんだ。入り込んで、出て行かない」

「オイ、冗談だろ?」

「本当だ」

彼は俺を見るなり、少し視線を外して話し出した。

「お前に話してから、数日は何ともなかったんだが、なんかな、急にな、家を出れなくなった。出ようとすると、気を失って倒れる。気が付くと夜だ。電話をかけようと思っても繋がらないし。夜になると、アレがぺたぺた歩き回ってる。気を抜くと布団の中に入り込まれて、身体中を這い回される。昼間は出てこないんだ。ああやって、天井裏とか縁の下に居るみたいで。気配はなんとなくするんだが、夜ほどじゃない。気にしないでいようと思えばいられる」

「気にならないのか?」

「気になるが」

「まさか巧いからまあ良いかとか思ってるんじゃねえよな?」

俺は一応念を押した。
彼はなんというかちょっと常人では理解できないようなところがあるから何ともいえない。
そのうち幽霊を嫁に貰うとか言い出しそうで怖い。

彼は俺が心配そうに覗き込むと幾らなんでもそれはねーよと笑った。ついでに続ける。

「それにな、一つ、さっき分かったことがあんだけど、お前が来たとき、アレの気配が少しだけ薄くなった。多分、そのうち消えるんじゃないかと思う」

そうか、と頷く。なら良いんだけど。
それにしても、嫌な感じは消えなかった。
彼は少し黙って、俺も黙った。

出された茶を飲んで、耳を澄ます。音は止んでいる。
しかし、何処に潜んでいるかも分からないとは実に気味が悪い。

こんな古い屋敷の中を、昼夜問わず何か得体の知れないものが這い回っているなどと、俺だったら考えただけでもう倒れそうだ。
ましてその家から出られず、居るのは自分一人など、到底耐えられそうにない。

どうして彼がこれだけ平静でいられるのかが解らなかった。
俺は彼には悪いけど、もうこの家に長居したくなかった。
彼が至って元気なことが分かったから、先生には適当な理由をくっ付けて説明すれば良い。

俺は立ち上がって、帰る旨を伝えると、彼は玄関先まで送ってくれた。玄関までは出れるらしい。俺はせめてもと思って彼に言った。

「あのさ、こういうの言うのってあんま好きじゃないけど、神主とか、えっと、霊能者?みたいなの、探して連れてきてみようか?一度お祓いした方が良いんじゃないか?」

「ああ、そうだね、でも、とりあえず暫くお前が来てくれたら良いよ。それで様子見だ」

「俺が来ると様子見になるのか?」

俺が来たことでアレの気配が薄くなったと言っていたがそれだろうか。
しかし、彼の口からは思ってもみなかった言葉が突然飛び出した。

「お前、俺のこと好きだろ」

「は!?」

彼は片方の口角だけ上げて笑った。俺はその顔を見て、何故か急に少し頬が熱くなった。

「なんだそれ?」

「だから、わざわざ会いに来たんだろ?」

「そりゃ、友達だもん、心配になるに決まってるだろ」

「今じゃねーよ。夜だよ」

俺は首を傾げた。
門を潜ったところで立ち止まる。彼は一向に変わらぬ口調のまま。


「あの腕さ、――お前の腕みたいなんだ」


そう言ったすぐ後ろ、肘から先だけの白い腕が母屋の縁の下に急いで隠れるように滑り込むのが見えた。

本当かどうかは分からない。

ただ、そういえばインターフォンにも出ないで俺が来たのが分かったのは、それが俺の腕だったからじゃないのか、と考えた。

じゃあ、なにか?俺の腕が昼夜問わずに彼の家に侵入してるっていうのか。俺も知らないところで?

俺はふと自分の腕を見た。同様に白かった。頭から血が引くのを感じる。顔を上げると彼は笑っていた。実に複雑な顔だった。


俺は言葉を失くした。

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