-小説-

□鏡の月
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目を開ければ水面はきらきらと輝いていた。
深い藍の表面に満ちた月が揺らいでは戻る。

銀に煌く鯉の腹が小さな水音と共に翻った。真緋(あけ)はじっと見つめた。池は、天に散る星や灯籠の灯さえも細やかに映した。音はない。風は凪ぎ、夏の夜の匂いがする。もう一度目を瞑ると声が聞こえた。

「お前、また見てるのか」

顔を上げる。松の木陰に若い男が居た。舛花(ますはな)か、と真緋は云った。舛花は木を離れ真緋の座る縁側まで来る。寄ると月明かりで白い顔が浮かび上がった。その細い金の髪が透けている。彼は異国の者だった。名も恐らく本物ではないだろう。

真緋が促すと彼は隣へ座り、同じ様に池の面を眺めた。

「飽きないか?」

「飽きん。美しいものはいつまででも眺めていられる」

あの月の影を見ろ、と真緋は指差した。一所に留まる事なく光は瞬いている。舛花はそれに目をやった。

「まあそれはそうと、あまり夜風に当たらん方が良いだろうよ。ろくに外も出られんような病持ちだろうに」

「なんだ、お前まで鴇芽(ときめ)みたいなことを云うのか。全く五月蝿いのが一人居なくなったと思えばすぐこれだ」

少し唇を尖らす真緋に舛花はくすと笑った。

「そうそう、そう云えばあの婆さんはどうした?いつも真緋様真緋様と五月蝿いというのに」

「ああ、あまりに五月蝿いので暇を出した。だから数日は帰って来んだろう。本当に心配してくれるのは有り難いが、まいってしまうよ。鴇芽には世話になっているが、世話好き過ぎる」

憎まれ口を叩きながらも顔は微笑んでいる。鴇芽は昔から真緋の家に仕えている下働きで、真緋も子供の頃から良く知っている故に信頼を置いている。だからこんなことが云えるのだ。真緋を見ると舛花も笑った。

「まあ、鴇芽の気もわからんでもないがな。病持ちだけなら兎も角、こんな若くて綺麗な女が夜一人で居たら、どんな変な虫が付くかもわからん」

「お前みたいなやつか」

「俺は虫除けだろう。変な気はない」

わかっているさと真緋は笑って、再び視線を池へ戻した。鯉が跳ねる。舛花は真緋を眺めた。

「――全くお前は、見蕩れるなら美しいものが此処にもあるだろうに」

「何処?」

「目の前に居るだろう」

舛花が冗談を云うと真緋は笑った。お前はいつでも見れるさと軽口を叩く。

「あの池に映る月だっていつでも見れるだろう」

「そうでもないさ。あんな風に美しい月は、そう何べんも見れるのものじゃあない。見れるうちに見ておきたいのさ」

舛花は少し黙った。真緋は、自分の寿命を知っているのだろう。だから余計、目に焼き付けて置きたいものがあるのだと解っていた。彼は目を逸らす。

「そう云うな。見ようと思えばまたいつでも見られる。それより今の身体を大事にすることも考えろ。風邪を引く」

「わかっている。有り難うな。――でもな、外もろくに歩けんのだ。正直、これが生きる楽しみにもなっている。だからあまり止めてくれるな。こうしてお前と話をしたり、お前から外の話を聞くのもその数少ない楽しみの一つなのだぞ」

真緋はふふ、と笑んだ。至って湿気のない笑みだった。舛花は頷く。

「そうか、じゃあ、一つ良い話をしてやろう。お前はよく見ているからな」

そう云うと舛花はあれを見ろと池を指差した。

「ああやって池の水面に映る月影を、逃がさないように手で掬い上げるんだ。その水を飲むと、月の半分が身体に宿って、たった一つだけ、願いを叶えてくれるのだそうだ」

「――その話本当か?」

真緋が首を傾げて笑う。舛花は冗談の好きなやつだったからだ。

「さあ、どうだろう」

舛花は軽く肩を竦めて笑った。首から提げた異国の首飾りが幽かに光る。空に月は蒼く、澄み渡っている。
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