-掌編小説-

□潮騒
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毎晩、彼女が僕を殺しに来る。

いつからだったろう、覚えていない。
毎晩、僕の前に、白い女の手が伸びてきて、首を絞める。

眠ろうとまどろんでいる間の圧迫感。
青白く透きとおる、手。どこか、魚のような湿度を、僕は感じる。

密な、重みのある細胞が、僕の首を絞め。彼女の長い髪が素肌に絡みつく。
しなやかな裸の四肢が肌を這い。ただ、その温度もずっと低温に感じられる。

彼女の温い吐息が、頬に触れる。その、湿った甘い匂いをどこかで知っている。

そして、そのうちに、もっと幽かな、一つの香りに辿り着く。

潮の匂いだ。

僕の意識は遠くなり、
どこか遠くで潮騒が聞こえる。

そして、長い夜は終わり、
朝が訪れる。

それは毎晩続いた。

首を絞める指は、徐々に力を増していく。
少しずつ、少しずつ。
僕は殺されはしない。
毎晩、死にかけるだけだ。

彼女の肌は、いつも少し湿っていた。
彼女の指は、細く、死んだように冷たい。

満月が見えた。
僕は、バタイユの小説の一節を思い出す。
魔性の少女が、若い神父を犯して殺す。姦淫の汚名を着せ、絞め殺す。

そういえば、彼女はあの少女に少し似ているかもしれない。
黒い、ガーターベルトと、ストッキング。
僕を犯し殺すつもりなのか。

朝が来る。
僕は彼女を抱いたりはしない。
そして、今までもそんな記憶は、ない。
ブランデーの染み込んだ角砂糖に火をつける。紅茶に落とす。

彼女は、誰だったろうか。
僕は考える。
彼女はいつから僕を殺しにきたのだろう。

仕事が終わって帰ると、白いサンダルがつま先を家の中に向けて置いてある。
女物だった。
僕に恋人は居ない。
カレンダーを見る。
8月13日を迎えていた。

クラシックをかけた。ピアノ曲が流れた。
紅茶をいれ、一口飲み、ベッドに横になる。
細やかな音階が耳をなで。
僕は目を閉じ、考えた。

どこかで覚えのある、甘い匂い。
多分、砂糖のような。
音楽には、何かが被るように音が聞こえてくる。
最初は幽かに、少しずつ、はっきり。小さな音。潮騒。

ああ、潮騒だ。

僕は彼女を思い出す。

夏だった。甘い砂糖菓子が売っていた。
彼女の舌がそれを嘗めていた。
白い肌。
黒い髪。
美しい、体。

岩陰でまぐわいあう、濡れた温度。
彼女の手が僕を導き。
彼女の黒い水着の下から真っ白な肌が覗き。
白い胸の先は熟れた柘榴のように透きとおり赤く、
彼女の唇のように赤く、
日の光を浴びた身体は、絹のような細やかなきらめきを見せ。

僕は彼女を愛した。

そのあと、僕は一人になった。
一人に。
彼女は居ない。

そういえば、彼女は、僕が殺した。

彼女を海に突き落とした。

真っ青な海に。


誰かが、彼女を見るのが、
嫌だった。

魔性のように魅惑的な女だった。
彼女の黒い睫が振り向いただけで、
その眼に釘付けにならない男は居なかっただろう。

吸い込まれそうなほど深い闇の色をしていた。
ぴんと張ったしなやかな身体を、
僕だけの身体を、
瞳を、
この光の中で晒して欲しくない。一目に、晒して欲しくない。見て欲しくない。
誰にも、誰にも、
誰にも。

最後の曲が終わった。
潮騒はまだ続いている。
日は落ち、部屋は暗くなる。
白い腕が絡みつく。
喉に食い込む細い指。
彼女は僕を、その指で導く。ゆっくりと。
深い冥府の入り口を押し開き。
僕を見て、笑んだ。
身体は、快楽を、
魂は、苦痛を、
引き込む。

僕は今夜彼女に殺される。

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