-掌編小説-

□タチアオイ
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僕は一人道を歩く。
故郷へ帰る真夏の昼下がり。
僕は峠に差し掛かる。

いつかの彼の言葉を思い出す。

――タチアオイが咲くと、陽炎が立つんだよ、この坂は。

タチアオイと陽炎にはなんの関係も無い。
きっと偶然だ。かつて僕はそう言った。彼は笑った。

僕は彼を思い出す。

何故思い出しているのかといえば、もはや彼が思い出の中の人に他ならないからである。
彼は数年前死んだ。

道の途中の果物屋で日向夏を買った。
持っていたナイフで薄く皮を剥いだ。
甘く透明な柑橘の匂いがする。
僕は果実を齧りながら坂を上る。

――タチアオイが咲いたら、陽炎が立つんだ。
――人はその中に、様々な影を見るという。

影とは一体なんだろう。幻覚なのか、夢、なのか、あるいは現実。
彼の傍にはタチアオイが咲いていた。
背の高いタチアオイが。

峠を半分ほど越えた。
凌霄花が咲いていた。

僕は日向夏を更に切り分けて、半分食べた。
遠く、蝉の声。
緑を透かす青い影が足元に落ちる。
視線の先には明瞭な水平線。
そして彼。

――俺にもくれない、それ。

彼は手を差し出した。血の気のない手だった。
僕は日向夏を切り分ける。
薄橙の雫が落ちる。

果実を受け取ると彼は少し笑んだ。
不思議と笑んだことは分かったが、彼の顔ははっきり分からない。
そういえば、そろそろお盆ではなかったか。
それも旧暦の。
彼は考え方も古い人間だったから、出るのも旧暦なのか。
などと考えたら笑えた。

大きく鳥が羽ばたく音がして、一瞬気を取られる。
僕は空を見る。
鮮やかな青。そして、積乱雲。

視線を戻したときには彼はもう居なかった。
足元には剥かれた皮だけの日向夏が落ちている。

食ったのか。

彼の立っていた場所には、凌霄花が咲いている。隣には百日紅。
タチアオイは咲いていない。

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