-掌編小説-

□山嵐 片時雨
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 香澄の腕にはたくさんの細い傷があった。
 たくさんの細い傷の上に、また重ねて何本も何本も傷が付いていた。
 深咲は前に訊いたことがあった。
 自分で切ったの、と問うとそうだと彼は答えた。


「カッター?」
「ナイフ」


 香澄はポケットからバタフライナイフを出して、刃を出すと手首に当てて見せた。
 痛そうだったので少し顔をしかめた。


「どうして切るの?」
「解らない」


 でも、と香澄は言った。恭兄のせいかもしれない、と続けた。
 恭は深咲の実兄で、小さい頃からよく三人一緒だった。六歳年上の彼を香澄も深咲と同じように慕っていたから、どうしてその名が出たのか解らなかった。


「恭兄のこと考えると切りたくなる」
「何で?」
「胸がいっぱいになる」


 香澄は軽く刃を当てて引いた。真っ直ぐに細く赤い線ができた。それでも香澄は表情一つ変えないで血が滲んでくる手首を眺めた。


「痛くないの?」
「痛くない」


 恭兄が俺のこと見てくれない方がずっと痛い、と香澄は言った。香澄の恭に向ける眼差しは、深咲のそれとは少し違うように思えた。いつからだろう。同じ位置にいた香澄は深咲をずっと引き離していた。

 そういえばこの頃から、香澄は身長も体格も随分成長し始めたと思う。元々成熟の早かった香澄を、何らかで恭がからかったのかも知れなかった。


「俺、恭兄好きなんだ」
「好き?――俺も好きだけど。好きだと切りたいの?」
「そうじゃない。俺のはそういうんじゃない」


 深咲は首を傾げた。香澄はナイフをしまうと煙草を咥えた。未成年のくせに、いつからそんなの吸ってたんだろう。香澄は煙草は嫌いなはずなのに、禁を破りたいためだけに煙草を吸う。

 そうして一服すると、彼は、恭兄のことこれだけ好きなのは俺だけだと思う、と言った。


「どれだけ好きなの」
「言えない。でも、恭兄が死んだら俺も死ぬ」


 ずっと居たいんだ、と香澄は言った。ずっと居たんだけど。


「はは、じゃあ香澄が先に死んだらどうするの」
「そんときは、恭兄を連れてく」


 真面目に言う香澄が何だかおかしかった。香澄は、いつもより幾分澄んだ眼差しで窓を見やった。
 外は、太陽と雲の隙間を縫って僅かに雨が降り始めていた。

 香澄は不思議と雨が良く似合った。水が似合うのかもしれない。
 澄んで流れるものが、その真っ直ぐで強い気性と妙にしっくりきた。

 雨か、と呟いて香澄は黙った。学校内にはもう人影はない。そろそろ行こうか、と深咲は囁いた。


「帰るの?」
「帰らないの?」


 香澄は首を傾けて、結局まだいい、と言った。恭兄によろしくね、と彼は言って、別れた。外は山からの風が僅かに吹いてきて、片時雨がつくる淡い虹が麓にかかっていた。




 それから、三年。


 香澄は死んだ。


 最初は、自殺かと思った。でもすぐ、そんなはずないと思った。
 香澄は強い人だった。でも同時にガラス細工ほどに脆そうな不安定さがあった。

 香澄が、一人で死ぬはずない。あんなに真っ直ぐで我儘な彼が自殺なんてない。
 大体、彼が、恭を置いて逝くわけなかった。


 深咲は香澄が死んだこと自体俄かには信じられなかった。



「恭兄、少しでも、香澄のこと好きだった?」


 香澄の葬儀が終わった夜に、恭に訊いた。喪服の彼は、いつもより随分憔悴して見えた。訊かなくとも大方解っていた。香澄が恭を好いていたのと同じ様に、恭も香澄を大事にしていた。

 香澄を大人にしたのは恭だと思う。葬儀の日にこんなことを訊くのはどうかと思ったけれど、確かめるだけ確かめたかった。


「香澄、恭兄が好きだったんだよ。香澄が死ぬわけないって思ってた」
「解ってる」


恭は少し俯いて、それから顔を上げた。


「俺、まだあいつがそばにいる気がするんだ。あいつが死んだ気がしない。感じるんだ。あいつの気配を。生きてた頃より強くなった気がする」


 それからぼんやり火葬場の煙突を眺めて、香澄は、と言った。


「きっと俺を連れに来る。あいつが俺を一人でほっとくわけない」



 恭はポケットに入れてあった煙草の残りを出して咥えた。夏の薄着が肌の輪郭をかたどる。左程華奢でもない体が夜の闇に紛れて色を失う。深咲はこのまま恭が消えてしまうのではないかと心配になった。

 香澄は、本当に、恭を連れて行ってしまうかもしれない。実際そう思わせるほどの強さが香澄にはあった。


 深咲は恭の肩を抱くようにして顔を覗き込んだ。


「――恭兄、――恭兄は、香澄が何言っても行かないでね」


 恭は深咲の顔を見ると、少しだけ笑った。やけに疲れた笑顔が、余計深咲を心配にした。


「――香澄は、もう死んでるから」




 恭がそう言って、静かに葬儀を終えた夜。


 それからお互いまた静かな生活が始まり、落ち着かなかった親戚たちも各々の生活を取り戻し始めた。夏は終盤に向かう。風が、涼しくなり始めた頃。




 そして、ちょうど、葬儀を終えて二週間目の夜。恭の言葉に深咲は耳を疑った。




「香澄が、俺に、会いに来るんだ」

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