-小説-

□香幽世
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 其れからどのくらい経ったろうか。

 気を付ける、と云ったはいいが正直幽世の女との逢瀬が止められた訳ではなかった。
遊左は夜毎女に逢いに行き、其の度遊左と女の距離は狭まった。

 最初は対岸の女が笑いかけてくるだけであったが、其れは徐々に近づいて、女の着物の模様やら肌の肌理(きめ)、粉白粉の匂いまでが明確に分かるようになった。

川のせせらぎは一層心地よく耳に響き、其の微かに反射する日の光さえ細やかに美しい。

遊左は肌に触れられるまでになった其の女と世界にすっかり魅了されていた。

 とはいえ、蘇芳の言葉を完全に忘れていたわけでもなかった。

確かにまだ気になる事がある。
女の肌には触れられる。しかし体温を一切感じなかった。
其の滑らかな肌の柔い感触は其のままなのに、其処に生きている熱を感じることはなかった。
元より幽世と繋がる香だ。女も生きては居らぬのだろうと分かってはいる。

引き摺られてはならんと思うには思うのだが、如何もこうも此の美しい女相手に然う警戒することもなかろうと若干の油断もあった。ゆえに遊左は日増しに精気のなくなっていく自分の異変にも気付かなかった。

 遊左は再び火を付けた。煙は衝立障子(ついたてしょうじ)を抜けて静かに揺らめき立つ。

闇の中でも煙が見えるのは、微かな灰が射し込む月の光を映すからなのだと然う思っていた。

だがどうも此の香は少し違うらしい。
光の射し込まぬ隅の真の暗がりでも其れはゆらゆら尾を引いて流れていく。
不思議なものだと遊左は暫く其の流れに見蕩(みと)れていた。

 やがて白濁した煙が映写幕(スクリーン)のように闇の中に幻影を映し出した。其れは段々と輪郭を現して明瞭になってくる。
遊左は其の光景にじっと目を凝らしていた。

 すると其の時、がさ、と近くから物音がした。振り返る。

 僅かに開いた衝立の向こうから、見慣れた顔が覗いた。

「――蘇芳!――御前、何してる」

 遊左の頬が僅かに紅潮した。
禁じられた逢瀬を人に見られるのは何となしに気恥ずかしかった。蘇芳は遊左のそんな様子も無視して、御前ぇまだやってんのかと呆れた様に呟いた。

「――胡散臭えモンに引っかかっちまった様だからよ、御前ぇの云ってたのがどんなモンか正体暴いてやろうと思ったンだよ」

 随分痩せちまったから如何してんのかと心配してたんだぜと蘇芳は肩を竦めた。

「――だからって御前ぇ、人ンちに勝手に上がり込むなよ。ッたく何なんだ」

「莫迦云うな。――御前ぇ、どんなモンだか分かってやってんのか?――しかしこいつぁ――」

 現れた女と其の美しい幽玄世界に蘇芳は驚くように呟いた。
眼を見張る。
煙の織り成す艶やかな世界がまやかしか否か確認するように其の靄(もや)の中に手を入れた。

微かに肌をくすぐる冷気と甘い匂い。其の思う以上の生々しさに少し戸惑った。

「止めろ!!」

 ぐいと遊左は蘇芳の腕を引っ張った。
其の勢いでよろめいた蘇芳の腕が衝立を引き倒した。立ち込めた煙が掻き回される。
拡散する煙の中で開かれつつあった幽世との境界がぼやけて薄れる。女も、美しい谷川の景色も形を崩した。

 其れに気づいた蘇芳は次いで近くの衝立を二、三枚蹴倒した。空気が流れる。障子を開けると外の空気が入ってきた。

「――ッ蘇芳!何するンだ!」

「莫迦眼ぇ覚ませ!よく見ろ!アレが人間の姿か!?」

 慌てて衝立を直す遊左の胸倉を掴んで数回揺さぶった。
開けられた障子から月光が射してくる。
辺りを覆っていた煙は流れ、次第に白く煙っていた空気も消えて元の暗闇に戻った。
跡形もない。ただ元の畳座敷に二人暫し呆然としていた。

「――あ、御前――何てこと――」

「見たか。御前が見てたのは掻き回せば消えちまうような儚いまやかしだ。こんな影も形もねえようなもんに御前は惑わされてただけだ」

 部屋にはまだ微かに白檀の残り香が漂っている。遊左は其れに中(あ)てられたのか、まだ朦朧としているようだ。

ぱんぱんと遊左の目の前で蘇芳は手を叩く。大丈夫かよと声を掛けた。

「分かったろ。もう莫迦な真似は止めろ。あんなモンに夢中ンなって、手前の人生くれてやるな。――随分やつれちまったけど御前、自分の事気付いてねえのか?――ちゃんと養生するンだな」

 遊左は云われてふと自分の手元を見遣った。以前より幾分痩せた手首。月明かりの中でも其の土気色にくすんだ躯の異変は見て取れた。

「――あ、ああ。ああ、然うだな。――分かったよ、御免。もう――しねえ」

額に手を当てる。軽い眩暈が襲ってきた。
然う云えば香を焚く度、女と逢う度に徐々に力が奪われていったように思う。

なんだかは分からないが、いずれ良くない物である事は大方分かっていた。元より現世の人間が、幽世と交わるという事自体良い事ではなかろう。そんなことも忘れていたのだと遊左はふと思い出した。

踵を返す蘇芳に悪かったなと告げる。蘇芳は少し肩を竦めて御前まで病になっちゃあ遊び相手が居なくなると文句を云った。

「菊が臥せってて話し相手が居ねえのに、御前まで賭場に来なくなったんじゃあつまらねえじゃねえか」

 笑う。
ああと遊左は頷いた。出て行く蘇芳を見送って、遊左は蒼い月を見上げた。辺りは深く闇が漂い、其の中にまだ僅かに残る香が着物の袖に香っていた。
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