-小説-

□鏡の月
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それから何日かした日の午後のこと。
暇を出していた鴇芽が帰ってきた。もっとゆっくりしてくれば良かったのにという真緋に、真緋様を一人になど心配で居られませぬと彼女は遮って笑った。

父を早くに亡くし、母親も昨年病で息を引き取った真緋の家は、真緋以外もう鴇芽と数人の奉公人しか居なかった。鴇芽は舛花が度々訪れることを知っていたけれど、やはり彼が若い男故、もし何か間違いがあればという気があるのだろう。真緋はただの友人だと云い張るけれど、それに関しては、鴇芽はあまり信じてはいないようだ。嫁入り前の娘が疵物にされては!など云い出すから全く困ってしまう。

「私が留守の間、何か変なことは御座いませんでしたか?あの男に何かされたとか」

「あの男って舛花か?――だから何度も云わせるな。何ともないよ、あいつは友人だ。お前が留守の間だって、夜一人じゃ物騒だからとわざわざ来てくれてたんだぞ」

「夜男を家に上げる方が物騒で御座いましょう!」

「だから舛花はそういう男ではないと云っているだろう」

帰ってくるなり鴇芽の小言を聞かされた真緋は呆れて肩を竦めた。こういう所作はいつの間にか舛花からうつったものだ。鴇芽はやたらと心配性なのだ。それにしても、この年で男の一人も居ない方がむしろまずかろうと思うのだが。

「大体、鴇芽の基準じゃあ厳しすぎて、行きそこなうどころか一生生娘だ」

「真緋様!なんてことを!」

「冗談だ」

顔を赤くして怒る古参の女から、真緋は逃げるように自分の座敷へ舞い戻った。笑いながら襖を開けると、障子の向こう、庭の池の隣にある松の木陰から舛花が顔を出した。手には袋を提げている。目が合うと彼は片手を挙げた。

「なんだ、楽しそうだな。鴇芽が帰ったか?」

「ああ、早速小言を云われたよ。お前のことでな」

昔の女は怒らせると怖い、とハハと笑った。なんだそりゃと舛花は縁側に腰掛ける。彼は持ってきた袋から、更に小さな袋を幾つか取り出して、土産だと広げて見せた。

「朝、そこで市があってな、菓子を買ってきた。お前甘い物好きだろう?甘納豆に、金平糖、鼈甲飴、落雁、最中、葛餅――」

「こんなにか?高かっただろう?――良いのか、貰って?」

嬉しそうに笑って訊く真緋に舛花は頷いた。もっと欲しいものがあれば云えば買ってきてやるぞと彼は云った。その笑顔に真緋は暫し黙って見入る。鴇芽の言葉が少し思い出された。

「――なあ、舛花。訊いても良いか?――如何してそんなに良くしてくれる?」

え?と目を向ける。舛花の碧い眼が真緋を見た。透明なくすみない色が光を様々に反射して、一瞬螺鈿のように見えた。彼は少し黙って首を傾げる。

「さあ、如何してだろうな。そうしたいからじゃないか?良くしたいと思うのに、理由がいるのか?」

「そう、か」

真緋は池へ視線をやる。何となく、解ったような解らないような、不思議な気分だ。ただ、何となく今はあまり長いこと舛花を眺めていると妙にくすぐったい気になるから、目を背けた。舛花は何を思っているのだろう。真緋は、舛花は好きだ。でもそれが如何いう類の好きなのかよくわからない。友人、だと思うけれど。舛花も、多分そうなのだろう。似たような感覚でいる。そんな気がした。ただ、もしかしたら友人よりは、近い。でもそれは、きっと何かを越えないところでの好きで、きっと恋心になったら何かが壊れてしまう気がした。

舛花は立ち上がる。これを置きに来ただけだと云った。彼がこんなに中途半端に優しいから、鴇芽に誤解を生むのだ、と思った。
じゃあな、と云って庭を歩く舛花を真緋は引き止めた。後ろから軽く走っていって袖を掴む。

「待て、私もお前にやりたいものがある。――大事なものだから、少し目を閉じていろ」

何だよ、と云って舛花は目を閉じる。真緋はその両腕を軽く掴んだ。
頭半分ほど違う背丈だが、届かない距離ではない。少しだけ背伸びをして、少しだけ顔を近づけた。

その薄い唇に、口付ける。

ほんの僅かの間だった。彼は目を開けた。

「何だよ、急に」

舛花の頬が仄かに朱に染まる。戸惑って目を逸らすのは何だか新鮮だった。

「すまん。――少し、確かめてみたくなったのでな」

「確かめるって、何をだよ」

「さあ、自分の気持ちかな。お前は好きだ。だからそれが如何いうものか、確認したかっ
た」

「確認できたのか?」

「わからん」

すまない、と真緋は俯いた。気落ちしたのか、照れているのかは舛花には判断できなかった。しかしすぐに真緋は顔を上げて、一度くすと笑うと、鴇芽には内緒にしといてくれよと自分の顔の前で人差し指を立てて見せた。彼は頷いた。
じゃあ、ともう一度片手を挙げてから舛花は背を向けた。鴇芽にばれないように裏口から出るため、松の木陰へ隠れていく。真緋はその後姿に声をかけた。

「舛花、――また来てくれるな?」

「ああ。また来る」

舛花は振り向いて手を振ると、裏口の木の扉を開けた。彼は笑っていた。
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