レインボーデイズ


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ある朝、俺がいつものようにキッチンの準備をしていると、いつもより早くマスターがリビングに下りてきた。

「あれ?早いですね、マスター」

俺が声をかけると、もうすでに学生服に着替えたマスターは『ああ』と頷いた。
「今日、日直なんだ」
「にっちょく?」
学生鞄をソファに置くとキッチンに来て、料理道具を揃えていた俺の隣に立った。
「そ。お前がしているみたいに、他の生徒より早く学校に行って、教室の準備をしなきゃなんないの」
なるほど、と俺は頷いた。
「料理も簡単に済ますから、もういいよ。テレビでも観てろよ」
そう言ってマスターは、冷蔵庫から昨晩の余り物や新しく材料を取り出していた。申し訳なかったけど、俺に出来ることはもうないから、大人しくテレビを観ていることにした。

マスターは本当に急いでいるらしく、今日は料理も食事もいつもよりずっと早く済ませてしまった。

「あ、そうだ、KAITO」

学生鞄を渡そうと廊下で待っていた俺に、マスターが声をかけた。
「はい?」
「今日は放課後寄るところがあるから、帰りは遅くなると思う」
「そう、ですか」
俺は少し、気分が沈む。

今日は早く出て行ってしまう上に、帰りも遅いのか。

そう思った俺に、マスターは気付いたのか気付いていないのか、困ったように笑った。
「心配しなくても、前みたいに黙って外泊はしない」
宥めるように言われても、あまり気分は浮上しなかったが、マスターに気を使わせてはいけないのでこれ以上沈んだ態度は出せなかった。
「帰ったら、」
俺は、俺の胸の位置くらいにあるマスターの顔を見た。マスターは真っ直ぐ俺を見上げていた。

「聞いてほしい話がある」

俺は手に持った、マスターの鞄の取っ手を思わず握りしめた。

「ひょっとしたら、まだお前には分からない話かも知れない。お前に話すことは、俺のただの自己満足かもしれな・・・」
「いいえ!!・・・いいえ」
思わず口を挟んだけれど、勢いは続かない。
「・・・どんな話でも聞きます」
マスターは眩しいものを見るみたいに、目を細めた。

「うん、頼む」

俺の手から鞄を受け取り笑ったマスターは、初めて会った時より大人びて見えた。



夕方になった。
いつもならそろそろマスターが帰ってくる頃だけれど、朝に言っていた通り、マスターはまだ帰ってこない。

俺は、いつもなら観ているテレビを消して、リビングのテーブルに肘をついてぼうっと考えていた。

マスターに、何をしてあげられるわけでもない。
俺に、人間の心は理解できないかもしれない。

けれど――――

本当は、初めてマスターがうなされていたのを見た時、マスターが『訊かないのか』って言った時、『どうしたんですか?苦しいんですか?悲しいことがあったのですか?』って訊きたかった。

そして、たとえマスターがどんなことを言ったとしても、どんな『ひどいこと』をしてしまっていたとしても、俺はきっとマスターを励ましたと思う。

貴方は何も悪くない、と。

けれど、俺には分からないけど、きっとそれではダメだったのだと思う。
俺が許しても、きっと何の意味もなかった。


おそらく、マスターのことを一番許していないのは、マスター自身なのだと思うから。


もしも、世界の全ての人がマスターのことを許しても、最後の最後、マスターは自分で自分を許せないのだ、と。


きっと、マスターの中には二人いる。
許してほしいと謝り続ける『昔の』マスターと、その謝るマスターを閉じ込めて見張り続ける、自分を許せないと思っている『今の』マスター。

俺が、ただただマスターに従順で、マスターは悪くないって励ますのは簡単だけれど、それは自分を許せない今のマスターを裏切ることだ。
けれど、マスターは悪い、と嘘でも責めてしまえば、きっともう昔のマスターが許されることはない。

あの時の俺が、マスターから話を聞きだしても、きっとしてあげられることなんてなかったんだ。マスターを失望させるだけで。

だから、俺は待つしかない。
俺の励ましを受け入れられるくらい、マスターが自分自身を許せるまで。

そうしてマスターが出す答えを、俺は見守るだけだ。



7時を過ぎた頃、キィっと言う門が開く音が聞こえた。人間なら聞こえない音だろうけど、人間より聴覚が鋭く設定されている俺にはよく聞き取れた。俺は立ち上がって玄関まで行く。最初玄関に立っていたら、ドアを開けたマスターがすごく驚いていたのが、ふいにメモリーから取り上げられた。ついこの間のことなのに、懐かしい気がした。

玄関マットの上で俺が立ち止まったと同時に、ドアが開いた。ドアの向こうに立っていたマスターは、俺を見てももう何も驚かない。
「おかえりなさい、マスター」
「うん、ただいま」
玄関に入り、ドアを閉めたマスターが顔を上げる。目元が赤い。

「泣いたんですか?」

思わず訊いてしまったけど、マスターが気を悪くした様子はない。
「うん」
泣いたようだけど、そう頷いたマスターは、どこかスッキリとした顔をしていた。俺は少しためらった後に口を開いた。

「・・・今日、どこに行っていたのか、訊ねてもいいですか?」

マスターは玄関に靴も脱がず立ったまま、微笑んだ。


「隣町の、・・・・・精神病院だよ」


「病、院」
懐かしそうにマスターは、目を細める。

「うん、母さんが入院してたんだ」

俺は、一瞬誰の『母さん』なのか理解できなかった。

「俺、母さんに会ってきたんだ」
「なん、で・・・」

俺が呆然として言うと、マスターは苦笑した。
「それは、『何で母さんに会ってきたか?』ってことか?それとも『何で母さんが精神病院に入院していたか?』ってこと?」
「・・・・両方」
遠慮がちに言うと、マスターは『うん』と頷いた。

「そういうことを、話そうと思ってた」

マスターが笑った。それは、今までで一番年相応の、明るい笑顔。

「歩きながら話したいんだ。出れるか、KAITO?」

そう言って、マスターは目で玄関を指した。俺はよく、マスターのお父さんの服を借りたり、マスターと出かけた時に買ってもらった服を着ていた。でも今は、起動した時の白いコートだった。マスター曰く、このコートは人には変わっていると感じて目立つから、外には着て出ないようにと言われている。

「あ、はい!すぐ!」

俺は慌ててコートを脱ぐと、とりあえず靴箱の上に置いた。下には黒いTシャツ着ていた。
「このコート、もう暑くないか?」
「・・・少し」
実は、施されている耐熱加工の賜物か、マスターほど暑さは感じない。でも多分、人間より少し暑さ強いくらいだろう。

「じゃあ、出よう」

マスターがドアを開けてから、促すように俺を振り返った。俺は頷いて、靴に足を入れた。

外は陽が沈み始めていて、人通りの少ない住宅街をオレンジ色に染めていた。この間、マスターと虹を見た空を見る。夕日が燃えるように揺らめいた。
俺は徐々に沈む夕日を見ながら、願う。


ああ、どうか、この人の悲しみを連れて沈んでください、と。

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