神様の珈琲

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簡単に言えば、鳥羽環は惚れてしまったのだ。



「環ちゃん、届いたの?」
お祖母さんが歩み寄ってきて尋ねた。環は目を閉じた青い髪の人形をソファに座らせてから、お祖母さんに向かって笑う。
「うん」
嬉しそうな孫を見て、お祖母さんも笑顔になる。
「その子のお名前は何て言うの?」
再び訊ねてきたお祖母さんに、環は慌てて自分の口元で人差し指を立てた。『しぃー』のポーズ。
「だめだよ。名前を呼ぶと起動して、目の前にいる人をマスターって認識しちゃうんだから。だからおばあちゃん、ちょっとさがってて。・・・あと、マル君も」
そう言って、青い人形の足元で主人の様子を窺っていた柴犬は、言っていることを理解したのか、主人の目を見据えると人形から離れていくお祖母さんのあとに続いた。

「うん、よし」

環はひとつ一人と一匹にお礼を言ってから、人形に向き直る。ボーカロイドと呼ばれるその人形を前にして、環は彼を買った経緯を思い出していた。



一年と半年前、環は友達に誘われてジャズのナイトクラブでお酒を飲みながらゆったりと話をしていた。サクスフォンの渋い音が、煩くなくて心地よかった。

「――――、」

ふいに、酔いも醒めるような優しい歌声がした。母親に頭を撫でられているような、そんな柔らかい優しさ。振り返れば、各々の楽器を手に演奏しているアンサンブルの中に、クラブには似つかわしくない年齢の少女がマイクスタンドを前に立っていた。優しい歌声は、彼女の口から紡がれていく。黒い服の中で、一際目に鮮やかなエメラルドグリーン。

ボーカロイドシリーズ三作目の、初音ミクだった。

環はその歌声を聞いた時の気持ちを、今でも鮮明に覚えているのに、今でもはっきりとした言葉では説明できない。ボーカロイドの歌を聞いたのは初めてだった。

つまり簡単に言えば、鳥羽環はボーカロイドの歌声に惚れてしまったのだ。



環は眠ったように目を閉じてソファに沈んでいる人形の、青い髪を撫でた。そうする必要はなかったけれど、そうしてあげたい気分だったのだ。

「―――KAITO」

ボーカロイドシリーズ二作目、KAITO。一作目のMEIKOと並んで初期型の彼の、瞼がぴくりと動いて、その下からビー玉のように無機質な瞳が現れた。
涼しそう、と環は思った。

「・・・こんにちは、マスター」

無表情ながらも優しげな面持ちで、人形が最初の一言を言う。

「こんにちは、カイト」

環はにっこりと笑った。そして手を差し出す。不思議そうな目で、カイトはその手を見つめた。
「人と初めて挨拶する時は、握手をするといいんだよ」
そう言って環は、カイトの手を取った。
「はい、握る」
環がカイトの白い手を取ってきゅっと軽く力を込めると、カイトも倣って力を込めた。そう、と環は笑うけれど、青い人形の表情は変わらなかった。
「環ちゃん、もういいの?」
振り返れば、離れたところにお祖母さんとマル君がこちらを窺うように立っている。
「あ、ごめんね。こっち来て。紹介するから」
近寄ってくる老女と柴犬を、またカイトは不思議そうに見つめ、そして環にビー玉の瞳を戻す。
「たまき?」
「環。僕の名前だよ。よろしくね。そしてこっちが僕のおばあちゃん。そしてこの子が柴犬のマル君」
紹介されたと分かったのか、マル君は誇らしげに鼻を高くした。
「登録しました」
エレベーターのアナウンスのような、平坦な声でカイトは言った。
「カイト」
名前を呼ばれて、カイトは環を振り返る。
「今教えたでしょ?」
にっこりと笑えば、カイトは口を僅かに開けて小さく「あ、」と言った。そしてゆっくりと立ち上がれば、すらりとした長身の青年だった。一歩踏み出して、お祖母さんに手を差し出す。
「カイトです」
お祖母さんは少し目を丸くして、ふっくりと笑った。環の笑顔とそっくりの。そして優しくカイトの手を握った。
「よろしくね、カイト君」
カイトはその笑顔を見てから、手をゆっくりと離す。そして脇で姿勢良く座っている柴犬と、目線を合わせるようにしゃがむ。

「カイトです」

マル君に向かって、手を差し出した。ぶはっという音の後に、環の笑い声が響いた。

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