神様の珈琲

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※カイト視点です。

目を開けたばかりなのに、世界は目まぐるしかった。


自分の名前はKAITO。僕が知っているのはそれだけだった。目を開けると、マスターがいた。僕の頭を柔らかく撫でて、とてもにこにこしていた。そう、これは笑顔。人間が嬉しい時や楽しい時にする顔。


けれど、嬉しいって何だろう。楽しいって何だろう。



とりあえず、マスターの言うことを聞いて、『良いボーカロイド』になって、捨てられないようにしないといけない。そう、プログラムされている。
マスターは握手を教えてくれた。人間が挨拶をする時に、一緒にする行為。握手という行為は知っていたけれど、こういう時にこういう風にするんだって、知らなかった。握ったマスターの手は、僕より少し暖かかった。

マスターが、お風呂に入りなさいって言った。僕は『はい、マスター』って答えた。『お風呂に入る』は、人間が湯を張った浴槽に浸かる行為だ。大丈夫、僕は知っている。僕はマスターが教えてくれた『浴室』に入って、『湯船』を見つけた。
あれに入ればいいんだ。
僕は真っ直ぐに浴槽へ向かった。そして入ろうとしたら、慌てたマスターに止められてしまった。

どうしてだろう。・・・分からない。

どうしよう、僕は駄目なボーカロイドかもしれない。
マスターは、分からないことは訊きなさいって言った。けれど、マスターの手を煩わせるのは『駄目なボーカロイド』だ。マスターが訊きなさいって言ったから、とりあえずそれには頷いた。マスターに逆らっちゃ駄目だから。マスターは、じゃあ一緒に入ろうかって笑って言った。

よく分からないけれど、僕は胸の辺りが熱いように感じた。分からなかったけれど、マスターにはやっぱり訊けなかった。

マスターは僕に、頭の洗い方、体の洗い方、それに伴ういろんな道具の使い方を教えてくれた。今度、僕用のスポンジを買ってくるとも言ってくれた。とてもゆっくり丁寧に教えてくれて、僕はきちんとひとつひとつをメモリーに残すことが出来た。僕は教えてもらった通り、『ありがとうございました』って笑顔で言ったのに、やっぱりマスターは、僕の笑顔に笑顔を返してはくれなかった。最初に笑顔でお礼を言った時も、全然にこにこしてくれなかった。どうしてだろう、と思ったらつい『マスター?』って呼んでしまった。ああ、しまったと思ったけれど、マスターは僕の頭を撫でてくれた。

僕とマスターは二人で湯船に浸かった。ああそうか、マスターがさっき僕を止めたのは、僕が浴槽に洋服を着たまま入ろうとしたから。
マスターはまた『分からないなら訊け』と言う。あまつさえ、『嫌なことは嫌だと、やりたいことはやりたいと言え』とまで言ってきた。けれど、そんなことは出来ない。だいたい、僕らボーカロイドはマスターにされて嫌なことなんて、そうそうない。そういうプログラムになっている。けれど、マスターはそれを聞いて眉間に皺を寄せた。その表情の意味するところを僕は知らないけれど、なんだか良くないっていうことは分かった。・・・やっぱり、僕は駄目なボーカロイドなのかな。

マスターを困らせては駄目だ。煩わせては駄目だ。そう思っているのに。


「困らないよ。カイトは家族だからね」


家族?
その言葉は、何故だか妙に頭に響いた。胸の中に、すとんと落ちてきた気がする。家族は、同じ種族同士がなるものだ。人間なら人間同士、犬なら犬同士。僕はボーカロイドで、人間じゃないのに。

「ボーカロイドでも家族になれるよ」

・・・分からない。僕のデータの中には、ボーカロイドが人間の家族になれるかどうかなんてインプットされていない。けれど、マスターが『なれる』って言うのなら、僕はとりあえず頷いた。そうしたらマスターは笑って僕の頭を軽く叩いた。きっと、僕の考えなんかマスターはお見通しなんだろう。僕はマスターの考えも、この世界のことも、全く分からないのに。インプットされた情報はたくさんあって、人間のこともたくさん知っているのに、『マスター』とその周りの世界は、ついていけないくらいに違っていて。僕には、ぜんぜん分からない。

「いつか分かるよ。ゆっくり、家族になっていこうね」

ゆっくり。で、いいのかな。今は分からなくても、駄目なボーカロイドじゃないのかな。何故かまた、胸がほっこりと熱い。なんだか意味もなく表情が動いて、そんな僕を見たマスターは何故かにこにこと笑った。



晩ご飯は僕も一緒に食べた。『家族はご飯を一緒に食べるもの』だからとマスターは言った。僕は食べなくても構わないのに、なのに食べたらお祖母さんの負担になるだけなのに、マスターは絶対一緒に食べるんだって譲らなかった。
マスターに、おいしいかどうか尋ねられたけど、僕にはよく分からなかった。だって、食事をしたのはこれが初めてで、食べ物の匂いや味を知ったのもこれが初めてで、これがおいしいものなのかどうか、僕には分からない。けれど、おいしいと言わなきゃ失礼だから、僕は『おいしいです』って言ったら、僕の顔を見たマスターは『こら』って言って僕の頭をコツンと打った。

「嘘は吐かなくていいんだよ」

僕はまた、失敗したんだって分かった。今日何度目の失敗だろう。

「そうだね、カイトは初めて食べるんだから、分からないね。難しい質問をして、ごめんね」

僕は顔を上げて、マスターの顔をまじまじと見た。どうして、マスターは謝ったのだろう。謝るべきは、駄目なボーカロイドの僕なのに。けれど、僕の疑問なんかマスターは気付かない。

「カイト、僕が言ったこと覚えてるでしょ?分からない時は?」
「・・・マスターに訊く」

うん、とマスターが笑う。本当にマスターはよく笑う。

「分からないのは、悪いことじゃないんだよ」

そして僕の頭を撫でる。ふいに僕は分かった。
マスターに、こうやって頭を撫でてもらうのは、『好き』だ。

「最初は皆、誰でも分からないことだらけなんだからね」

でも僕は、きちんといろんな情報がもうインプットされているのに。それを有効に使えないのは、やっぱり駄目なんじゃないだろうか。

『無能』

その単語がぽんと浮かんだ。それは、アンドロイドにとってあってはならないことだ。たとえマスターが、良いんだよって言ってくれても、それに甘えていたら駄目だ。人間にとって便利であること、それが、ボーカロイドだけじゃない全てのアンドロイドの存在意義なのに。

このままじゃ、僕は捨てられる。返品される。

それは、嫌だ。


そう思うと、視界がふにゃりと歪んだ。
「え!?」
慌てたようなマスターの声がしたけれど、こんな視界じゃマスターが見えない。
「環ちゃん、泣かせちゃだめよ」
お祖母さんの、ちょっと低めた声が聞こえる。『泣かせちゃだめよ』?泣いている?

誰が?

僕の頬を、誰かが拭いた。両方をこしこしと拭いて、さらに目元をごしごし擦られる。その感触が離れて、僕が目を開けると視界が良好になっていた。目の前に、起動した時のようにマスターの顔があった。同じように僕の頭を撫でている。するとまた視界が歪む。
「カイト?」
戸惑ったようなマスターの声。マスターは、泣いていなかった。お祖母さんも泣いていない。じゃあ、泣いているのは、僕?これが、涙?

「環ちゃん、もう今日は寝かせてあげなさい。きっと疲れたのよ」
「え?・・・うん」

マスターは僕の手を取った。立てって言われているのが分かって、僕は椅子から立ち上がる。視界がぼやけてあまりよく見えないけれど、マスターが手を引いてくれるから、何も困らなかった。どこかの部屋に連れられて、なんだかふわふわしたところに寝かせられた。お祖母さんが『寝る』とか言ってたから、これは多分、ベッド。マスターはまた僕の目元を拭いた。良好になった視界に、マスターが映る。

「落ち着いた?」

僕は頷いた。ああ、どれだけマスターの手を煩わせているんだろう。そう思うとまた涙が出そうで、わけがわからない。

世界は僕が思っているよりも、ずっとずっと目まぐるしくて、追いつけない。
分からないことが多すぎる。自分が涙を流す理由も、分からない。

マスターは僕が寝るベッドの脇に椅子を持ってきて座った。

「どうして泣いたか、カイトは自分で分かってる?」

分からない。けれど、そう言っていいのかも分からない。嘘を吐くなとマスターは言った。だから僕は、『分かりません』と小さく言った。

「じゃあ、泣いた時、カイトは何を考えてたの?」

マスターが僕の頭を撫でた。ああ、そうだ。


「こうやって、」


言っていいのかな。分からない。何故だか僕はマスターを見れなくて、目を閉じた。

「こうやって、マスターに撫でてもらうの、好きだな、って」
「・・・うん」
「でも、僕は『駄目なボーカロイド』で、このままじゃ、マスターに返品されちゃうと思って。それは、嫌だな、って」

けれど、無能なアンドロイドが返品されるのは当然のこと。それを嫌がるのも、いけないことなのに。
「カイトは、どうして自分を『駄目だ』って思うの?」
僕はきょとんとして、つい目を開けてマスターを見上げた。『どうして?』って、マスターが一番感じているんじゃないのかな、僕は『無能』だって。

「だって僕は何も分からなくて、何も出来なくて」
「分からないことは悪いことじゃないって、初めは皆分からないんだって言ったよね?」
「いろいろ僕は知っています。知っているはずなのに、分からないんです。世界が目まぐるしくて、それについて行けなくて・・・。それは、僕が無能だから・・・」

そこまで言うとマスターは、ああ、と手を叩いた。

「悲しかったんだね、カイト」

僕は口をぽかんと開けた。

悲しい?

悲しいって何?どれが、悲しいって感覚?
「僕に返品されると思ったから、悲しかったんだ。せっかく好きだと思えるものがあったのに、返品されたら叶わないから」

あ、と僕は呟いた。マスターに撫でられるのが『好き』だと思った。けれど、無能な僕は返品されて、二度と撫でてはもらえない。マスターの笑顔も見られない。

それは、嫌だと思った。

返品が、というより、それらが嫌だった。

「すごいね、カイト」
「・・・すごい?」

マスターの口からは、いつだって僕の理解できないことが出てくる。
僕の、何がすごい?

「一日で、いろんなことを知ったね」

マスターが僕の頭を撫でた。あ、分かる。これは、『優しい』だ。

また視界がぼやける。

分かります、マスター。

言いたいけれど、なんだか言えない。いろんなものが溢れている。
「カイトはすごいよ。きちんといろんなものを受け止めているんだね」
「うけとめ・・・?」
「分からない、と思うのは、分かったつもりでいることより、ずっとすごいことだよ。きちんと正面から向き合わないと、そう思えないものなんだ」
だから、分からないと言っていいと、マスターは笑った。
分からないと思うことは、すごいこと?
「何事も経験しないと分からないんだよ、カイト。だからこれから一緒に、いろんな経験をしようね」

一緒に。

「・・・はい、マスター」

そうして僕は笑った。確かに、笑った。

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