神様の珈琲

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磐井善史は長男だったので、やはり『兄』という存在に憧れていた時期があった。強くて格好良い兄もいいのだが、彼の姉がとても強く格好良い姉だったので、彼は優しく穏やかな兄がいたら良かったのに、と子供の頃常々思っていた。
さすがに20歳を迎えれば、兄が欲しいなど子供っぽいことを言うこともなかったけれど、幼い頃の憧れというものは、なかなか人の心からは消えないものだ。

磐井善史がバイト先で出会った鳥羽環は、言うなれば彼の理想の兄像を現実にしたような人だった。大学の近くのレンタルビデオショップでアルバイトをしている学生は、当たり前のように同じ大学で、鳥羽環も当たり前のように彼と同じ大学の学生だった。ただし、鳥羽環は彼の理想の兄像なだけあって彼より5歳も年上の大学院生で、レンタルビデオショップで知り合いになってからも、大学で会うことはほとんどなかった。

「そう言えば、」
磐井善史は、隣で返却されたDVDを並べている鳥羽環に話し掛けた。いつもいつも主任に『私語ばかりして』と怒られているが、いつもいつもそのことを忘れるのが磐井善史だった。
「環さん、ボーカロイド買ったんですよね?」
DVDを丁寧に並べていく鳥羽環は、一旦手を止めて磐井善史を振り返った。
「うん」
薄いその笑顔は、どこか穏やかで、彼はその笑顔が好きだった。バイト仲間に言ってみたところ、皆も同意していた。
「たしか、善史君の家にもいるんだよね?」
コトリ、とDVDを一枚並べながら。
「はい!初音ミク以外、4人揃ってますよ」
本当は5人揃えてあげたいのだが、ミクは人気で、お金がある時期に限って予約満杯だった。ボーカロイドはとても高価で、磐井善史の姉夫婦は医者と看護婦の高給取りだったが、それでも時期を逃してしまってはなかなか買えなかった。
「すごいね」
コトリ、とDVDを並べる鳥羽環に、羨ましがる様子はなかった。1人でも高価なボーカロイドが4人(鏡音は2人で1セットなので正確に言えば3人)もいれば、大体の人は羨ましがる。
「じゃあ、善史君ちにもKAITOがいるんだ」
「『も』ってことは、環さんが買ったのって・・・」
「うん、カイト」
こだわりなく頷く環を、善史は不思議な心持ちで眺めた。
「でも環さん、初音ミクの声、褒めてましたよね?」
彼が友人と行ったクラブ。そこで歌っていた初音ミク。鳥羽環は彼女の歌声を聞いて、ボーカロイドを買おうと決めたのだ、と聞いている。
「うん。でも施設でデモソングを聞き比べて、そうしたら皆とても綺麗な声だった。その中でも、カイトの声が好きだったから」
確かに、と善史は自分の家のボーカロイドたちを思い出して思った。いつも皆、綺麗な声で歌ってくれる。もちろん、善史のカイトも。

「でも、カイトって扱いにくくありませんか?」

善史は苦笑しながら言った。
「扱いにくい?」
鳥羽環はきょとんとした顔を返した。
「それは、歌のこと?それとも性格のこと?」
実のところ、環はまだカイトと歌のレッスンをしていない。だから、歌のことだったら答えられないのだ。すると善史は、『なに言っているんですか』と笑う。
「性格に決まってるじゃないですか〜!」
鳥羽環は、さらにきょとんとした。
「常に機嫌悪いし、態度も悪いし、ついでに口も悪いし」
困ったような疲れたような、眉毛をハの字にして善史は日頃のカイトを思い出していた。それを見ながら、鳥羽環は首を傾げた。

「カイトは素直な子だよ?」

今度は善史の眉間に皺が寄って、環はますます首を傾げた。自分の家のカイトをどんなに斜めに見ても、善史が言うような形容はできない。そしてそう言えば、と思い出す。
「ボーカロイドは、マスターの性格や環境に影響するって言うし」
「えー、それでも間違っても『素直』って言えるような性格じゃないですし、そこまで差が出ると思えませんよう!人間ならともかく、同じ『KAITO』なのに!」
うーん、とひとつ、のんびり鳥羽環はうめいた。

「だって、歌のレッスンで綺麗に歌えてたから褒めたのに、『歌が上手くなるよう練習するのは、自分の為ですから』って突っぱねるんですよー!メイコだって、俺がリビングでくつろいでると、『あら、いたの?』とか言うし、リンとレンは変なプロレス技かけてくるし。うちのボーカロイドは全く俺に対して愛情がないんですよーっ!!」

うわぁん、と泣き出しそうに善史はわめいた。環は、あれ、と思う。

「でも、綺麗に歌うんでしょ?」

すると、途端に善史は胸を張った。
「そりゃあ、もう」
だったら、と環は考える。環は、ボーカロイドは自分に注がれている愛情を、きちんと理解できると信じている。そして、注がれた以上の愛情を返そうとするものだ、とも。

「善史君は、カイト君の歌をきちんと褒めてるんだよね?」
「はい!」
「・・・カイト君は、歌はよく歌う?」
そう訊ねれば、思い出そうと善史は『うーん』と上を向く。

「そう言えば、歌いますね。掃除とか、皿洗いとかの時に、よく。鼻歌、って言うにはしっかり歌ってます」
「それは、善史君はたまたま聞いたの?」
「そうですよ。俺は近くで本読んでたり、課題してたりするだけですから」

それを聞いて、環はにっこり笑う。その意図を、善史は測れない。

「それは、―――良いBGMだね」
「まあ・・・、そうです、ね?」
「その時メイコやリン、レンは?酷いことを言ってきたり、技をかけてきたりする?」
「そう言えば、しないかも。ていうか誰かが歌ってたら、だいたい他のボカロは大人しいですね。歌の邪魔にならないようにしてるんですかね?」

そう自分で言って、善史は少し落ち込む。

「ボカロ同士なら思いやりがあるのに、どうして俺にはないかなあ・・・」

それを聞いて、環はついクスクスと笑ってしまった。善史がきょとんとするので、『本当に分かってないんだなあ』とさらにおかしくなる。

磐井家のカイトが歌うのは、もちろんマスターである善史のため。素直でない、と言われる彼は、マスターが他のことをしている時に、邪魔にならないようにひっそりと、それでいて練習で褒めもらった歌が聞こえるように歌う。メイコもリンもレンも、同じだ。そうして、マスターの為に歌っていると分かっているから、誰かが歌っている時は、他のボーカロイドたちも邪魔はしない。

明るく陽気な磐井善史。彼は大らかで、悪く言えば鈍感。


『貴方の為に歌っているのに』という溜め息交じりのメイコの声が。

『なのに何で気付いてくれないんだよ!』という非難するレンの声が。

『マスターのバカーーッ!!』というリンの怒声が。

『だから、いまさら褒めても許しませんよ』という拗ねたカイトの声が。


鳥羽環には聞こえた気がした。


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磐井善史くん、一足先に短編「着信メロディ」でデビューしていましたが、本来はこっちの登場人物です。

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