神様の珈琲

□5
1ページ/1ページ

パラパラと捲れていくページを、カイトはぼんやりと、しかし決して目を離さず見ていた。環は、『マル君に似ているなあ』と思いながら、ページを捲り続けた。
「最初は、簡単なものがいいかな。僕のためにも、カイトのためにも」
苦笑する環の手にあるのは、中学校時代の音楽の教科書。今日は、カイトの初レッスンの日だった。昔お嫁に行ってしまった環の伯母さんが使っていた練習室には、今でも立派なグランドピアノがある。その部屋に入ったカイトは、すぐにピアノに駆け寄り指で鍵盤を弾いてみせた。そして部屋に音が響くと、それが見えているかのようにカイトは視線を空中に彷徨わせた。

音を感じているのだろうか、と環は思った。

音楽のために、歌うために生まれてきたボーカロイド。赤ん坊が生まれながらに泣き方を知っているように、ボーカロイドも音の感じ方を知っているのかもしれない。
「これは・・・ピアノですか?」
鍵盤を弾きながらカイトが訊ねるので、環は頷いた。
「そう。それがピアノ。そしてこっちが、」
そう言って部屋の隅に置いていた、抱えるくらいのケースを開ける。
「ヴァイオリンだよ」
「ヴァイオリン」
「僕が弾けるのはこの二つだけ。まあ多分、ピアノがほとんどだと思うけど」
ヴァイオリンは甘く繊細な音を奏でるけれど、音の多彩さではピアノが勝る。ボーカロイドの幅広い声と合わせるなら、ピアノの方がいいだろう。
「あと、僕には作詞作曲の才能もセンスもないから、まずはこの中から選ぼうね」
そう言って、ケースから取り出したのは母校の音楽教科書。高校の選択授業では書道を選んでいたので、この教科書が最後の音楽の教科書になった。
「楽譜はいくつか持ってるから、クラシックとかだけど、歌詞がつけられそうだったら僕も頑張って考えてみる。その時は、歌ってね」
カイトは一瞬きょとんとした後に、はにかんだような薄い笑みで頷いた。
「はい、マスター」
そう言った声は、平坦ではなかった。



ページを捲る手を止めて、環はカイトに教科書を手渡した。
「この曲にしようと思うんだけど」
環はピアノの椅子に座っていた。カイトはその横でクッションを敷いて床に座っている。カイトが受け取った教科書は、真ん中のページくらいで開かれていた。

「ふる、さと・・・」

カイトが曲名を読み上げると、環は鍵盤に指を置いた。ポーンと、最初の音が響いて、続くようにピアノの音が流れ始める。カイトは目を閉じて、その流れに身を委ねるように上を向いた。

1番を弾き終わり、環の指がピアノから離れる。

「メロディラインは入った?」

環が問うと、夢から覚めるようにカイトは目をそっと開けた。
「はい、マスター」
頷きながら、噛みしめるようにカイトが教科書をぎゅっと握った。
「カイト?」

「ピアノの音を聞いている間、マスターに頭を撫でられている気分でした」

マスターの音だからでしょうか、と笑うカイトの頭を、環も笑って撫でた。
「じゃあ、次は歌詞をあてながら聴いて」
もう一度音が流れ始めて、カイトは教科書を凝視しながら聞き入った。所々でぶつぶつと歌詞を呟く声が聞こえたので、環は1番を弾き終わった後にまた曲を繰り返した。
1番を3回弾いてから、演奏を終える。

「どう?」

体を回して、床に座るカイトの方を向く。余程集中していたのか、カイトは環が見ていると気付いてから、ぱっと教科書から顔を上げた。
「リリックの入力完了しました」
そう言うカイトは、上手く芸が出来たマル君のように、少し誇らしげで。

「じゃあ、歌って」

環はもう一度鍵盤に指を置く。緩やかにイントロが始まり、カイトは音もなく立ち上がる。ボーカロイドは息をしない。

カイトの唇が綺麗な丸を描くと、まるで楽器が音を奏でるようにブレスもなしに声が流れ出した。



マル君の頭を撫でていたしわくちゃの手が、『あら、』という声とともに動きを止めた。一瞬だけ不服そうな顔をしたマル君も、次にはお祖母さんと同じようにぴたりと耳を傾ける。
「懐かしい曲ねえ」
お祖母さんが穏やかに笑うと、マル君はひとつ尻尾を振った。

「死んだお祖父ちゃんを思い出すわ」

そう言ったお祖母さんの声を聞いて、マル君は揺らしていた尻尾を垂らして『くぅん』とないた。
「あら、心配させちゃったかしら」
笑うお祖母さんを、マル君は見上げるだけ。
「でも、この歌は悲しい歌じゃないから、大丈夫よ」
お祖母さんは故郷では、お祖父さんとまるで兄妹のように共に育ち、長い時間を一緒に居て、当たり前のように結婚した。
幼い頃から流れていた二人の間の穏やかな時間は、結婚した後も変わらなかった。恋人であった時間などあったかしら、とお祖母さんは思う。なんせ、ずっとずっと一緒に居て、ふとある日の会話の途中でお祖父さんは『ああそうだ結婚しないか?』と、特にかしこまったこともなく言って、お祖母さんも『ああ、そうね』と応えた。
今はもう全てが遠く色褪せているはずなのに、思い出せば優しさに彩られていたような気さえする。
それが故郷。

「ただ、誰だって故郷っていうのは懐かしいものなの」

子供の頃からこの家に居る、マル君には分からない話。
「とても、カイト君の声に合っているのね」
男声のはずなのに、まるで昔聞いた母親の子守唄のような、ただただ優しい歌声。お祖母さんもマル君も、流れてくるその声に耳を澄ませた。



環の指が鍵盤から離れる。カイトも唇を閉じた。
部屋を覆うかすかな残響を追いかけていた環が視線を感じて振り返れば、カイトは黙って環を見ていた。無表情なのに、もう人形だとは感じなかった。無機質な目に、灯火が揺らいでいる。
「・・・・僕、歌えました」
蚊の鳴くような小さな声。カイトから話し出すのは珍しかった。
「うん、どうだった?」
環はあえて、自分から評価は下さずカイトに訊ねた。

「・・・・・・、・・・・・・」

カイトは何か言おうと口を開けて、そして閉じる、というのを数回繰り返した。カイトはまだ、自分の感じたことと知っている言葉を照らし合わせることが不得手だ。おそらく、どのボーカロイドも通る道。知識と経験のすれ違いだ。もちろん分からなくても、表情で読み取れるから困らない。

けれど、歌声は心、歌詞は言葉だ。それをすれ違って、伝えられないのであれば歌は成長しない。

それは、ボーカロイドにとって不運だ。
自分の想いを言葉で伝えられてこそ、言葉の意味を心で理解してこそ、ボーカロイドは成長する。環はそう思ったので、カイトに訊く。

「・・・・・・・」

口を開けては閉じて、困ったようにカイトは視線をうろつかせた。

歌を歌った。初めて歌った。環のピアノを聞いて、楽譜とリリックを合わせて、そう、それだけの行為。歌詞の内容は、まだよく分からない。

それでも、自分の口から声が、紛れもない『歌』が流れた瞬間。同じように、カイトの中のAIからリリックではない何かも溢れた。

感情、と呼ばれるそれは―――――


「・・・・・嬉しかった、です」

ぽつりとカイトは言った。
初めて歌った。初めてだから、その出来の良し悪しも分からない。けれど、自分の口から歌が流れた。それだけが、ただ嬉しい。

「僕、嬉しいです、マスター。僕、歌えました」

環がにっこりと笑う。その笑顔を見て、カイトはやっと分かった。

環の笑顔。
環の、頭を撫でてくれる掌。
ゆっくりと丁寧な声。

それらは全て優しい。そしてそれらを受け取った時の、暖かな想い。

『嬉しい』だ。

環が『優しい』と、カイトは『嬉しかった』のだ。

「・・・あ、ありがとう・・、ございます」

何故か、自然と頭が下がった。どうして頭が下がるのか、カイト自身よく分からなかった。けれども、最初から知っていたように、腰は曲がった。

「ありがとうございます、マスター」

顔を上げて、笑った。心から、笑いたいと思った。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ