神様の珈琲

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ヒトの匂いがしない、彼は誰だろう。

僕の名前はマル。お祖母さんとご主人様に、普段から『マル君、マル君』と可愛がられている犬だ。いや、可愛がられていた、だ

僕は二人が大好きだったし、だからたくさん芸だって覚えたし、言うことはきちんときいた。そのたびに、僕の頭を撫でてくれるご主人様が大好きだった。

ある日、新しい家族が増えた。ご主人様と同じくらい大きいそのヒトは、けれど二人のようなヒトの匂いがしなかった。

彼は僕より後から来たのに、ご主人様にべったりだ。

今までは、玄関でご主人様を待って、それを褒めてもらうのも、頭を撫でてもらうのも、遊んでもらうのも、ひっつくのも、ぜんぶ僕の特権だったのに。

彼は耳がいいのか、僕がご主人様の匂いを嗅ぎ当てるのと同じくらいに、ご主人様の足音を聞き分けて、僕と同時に玄関までお迎えに行く。そして褒められて頭を撫でてもらうのは、頭が高い位置にある彼の方から。
ご主人様は、きちんと散歩もしてくれるし休みには遊んでくれるけれど、その時間は削られてしまった。そして削った時間は、彼との『れっすん』に当てられる。
彼はご主人様が家にいる間は、ずーっとご主人様に付いて歩く。ご主人様が立ち止まれば彼も立ち止まるし、ご主人様が座れば彼も座る。

僕の入る隙間が少なくなった。

それでも、ご主人様は彼を大切にしているようだったし、家族だと言っていたし、僕のことを忘れてしまったようではなさそうだし。

僕だって、彼のことを嫌いなんかじゃない。

だって、とても綺麗で心地よい声で歌うから。僕にはヒトの歌の良し悪しなんか分からないけれど、彼の歌う声はとても楽しそうで嬉しそうで、おそらくきっと、これが幸せの色。

ただ少し、悔しいだけ。ただ少し、やきもちを焼いているだけ。


「マル君」
彼が僕に声をかけた。お祖母ちゃんは町内の集まりに出て行って、家には僕と彼だけ。
「今日はマスター、何時くらいに帰ってくるのかなあ」
毎日毎日会っているはずなのに、それこそ家では四六時中ベッタリしているのに、ご主人様の帰りが待ち遠しいみたい。僕も、そうだけど。
「新しい歌を教えてくれるって言ってたんだ」
良かったね。彼は、最初にこの家に来た頃よりずっと、ご主人様たちに近くなった。僕は最初、表情のない彼がゴミ捨て場に捨ててあった人形と同じに見えたから。それでも、ゴミ捨て場の人形の方がまだ匂いがあって、身近に感じたくらい。
けれどもう、全然違う。犬の僕には、分からないのかもしれない。

「マル君がこの家にいて、良かったなあ」

彼は僕を見て言った。ほら、この顔なんてご主人様にそっくりで。最初に家に来て、そふぁで寝ているようにしていた時からは、僕は想像も出来なかった。

「マスターもお祖母さんも人だから、いつだって家にいられるわけじゃない。でも、だから、マル君がいて、良かった」

僕は耳をぴくぴくとさせた。
そういえば、僕がひとりでご主人様たちを待っていたのは、いつの話だったっけ。ご主人様の帰りを待つ玄関が、広くて暗くて寒いと感じていたのは?

―――今は?

僕は初めて会った時のように、彼を見上げた。

いつから、この静かなだけの空間に、優しい歌声が流れ出したのか。


僕はわんっと一声鳴いた。すぐに彼は振り返って僕を見た。
僕は彼をじっと見つめながら、尻尾をフリフリと揺らした。そんな僕を見て、彼は小さく笑う。そうして僕に伸ばされた手は、ご主人様と同じもの。
そうして、彼から流れてくる歌声は、彼だけのもの。




「あれ」
「あら」
家の前でたまたま会った環とお祖母さんは、一緒に玄関を開けて同時にそう言った。玄関を開ければ、いつもカイトとマル君が並んで待っているはずだった。

「何かあったのかしら?」

そう言うお祖母さんの声は、しかしクスクスと楽しげで。

いつもひょろりと玄関に立っているカイトは、膝を抱え壁に寄りかかって眠っていた。その傍で、カイトに寄り添うようにマル君も丸くなって眠っていた。いつも自分を律するようにピシっとしたお座り姿で待っているのに。
「待たせすぎたかな」
環もふふっと笑う。
「でも、」
一人と一匹を見て、環は思った。

「よく似た二人だね」

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