神様の珈琲

□7
1ページ/1ページ


カイトは往来の真ん中で呆然とした。ボーカロイドである自分が珍しいのか、道行く人々は好奇の目でカイトをジロジロと見ていくけれど、誰一人声をかけようとはしてこない。カイトはほとほと困り果てて、座り込んでしまう寸前だった。

そもそもカイトがこんなことになったのは、2時間前のこと。



朝食を済ませた鳥羽家は、それぞれ今日一日の予定をこなすべく動き始めた。マル君は日当たりのいい縁側で寝るべく自分のクッションを置く絶妙なポイントを探しに、お祖母さんは朝食の後片付けと昨日溜まった衣類の洗濯、カイトはお祖母さんの手伝いとして家事全般を行っていた。
テーブルを拭いていたカイトは、玄関へ向かう環を見つけて慌てて追いかけた。

「マスター、いってらっしゃい」

大学院生である環は平日、登校時間は割りとバラバラだが毎日大学へ通っている。カイトにはよく分からないことを毎日勉強しているのだ。

ここ数日、カイトは少ししょぼくれていた。

環がその大学で『研究発表』を控えていて、帰ってきてもほとんど家族を相手にせず部屋にこもっていたからだ。もちろん環にとって必要なことで、邪魔をしてはいけないとカイトは分かっているから不満に思ったわけではないが、寂しくないといったらやはり嘘だった。それに環がとても疲れているようで、心配でもあったのだ。

ただそれでも、環は少しの時間を見つけてはカイトやマル君の相手をして、構ってあげられなくてごめんねと謝った。そう言われては、『寂しい』とも言えない。
カイトに出来ることは、環を励ますことと、癒してあげられるような歌を歌うことだけだった。
そうして昨日、帰宅した環は研究発表の準備が終わったと言い、もうすぐ歌のレッスンしてあげるね、とやはり少し疲弊した顔で笑った。


「うん、行ってくるね、カイト」

環の手には発表に使うのであろう、いつもは見慣れない手荷物がある。カイトはそれをちらりと見遣ってから、環自身に向き直る。

「帰りは遅いですか?」

人の通う大学院の発表とやらがどんなものかは知らないが、あれだけ環が日数をかけたものが、簡単に終わるのだろうか。

「今日は発表するだけだからね。むしろいつもより早いと思うな」
「本当ですか!?」

思わぬ言葉に、カイトはつい語調を強めた。はっとしたが、環は特に驚いた様子もなく疲れた様子を見せながらもニコニコとしていた。
「・・・じゃあ、早く帰ってきて、早く休んでください」
本当は話もしたいし、歌も歌いたいが、環の健康を害してはいけない。若干複雑な心境で言えば、環に伝わってしまったのか、クスリと笑われて頭を撫でられた。それ以上何かを言うこともなく、環は荷物をぶら下げて出て行った。
カイトは聴力を最大にして、それでも聞こえなくなるまで環の足音を見送っていた。


そして家事の手伝いに戻ったカイトは、不吉なものを発見してしまった。


「マスターの、研究資料・・・・」


ファイルからは色とりどりの付箋がはみ出し、中に挟んであるどの紙にも環の字が書き込まれている。

「まさかマスター・・・忘れ・・・・」

あんなに一生懸命取り組んでいたのに。
カイトの脳裏に少しやつれた環の姿が浮かぶ。これで『発表』とやらを失敗してしまったら、環はどうなるのだろう。
がっかりするだろうか。悲しむだろうか。まさかもう一度やらなくてはならなくなったりしないだろうか。

それは困る。

カイトは思った。環の健康上、カイトの精神衛生上、すごく困る、と。
またあんな、あまりご飯も食べてくれないような生活を続けられると、倒れてしまう。
それに、せっかくまた環とゆっくりできる日々に戻ると思っていたのに。

「と、届けよう・・・っ!」

カイトはファイルを抱きしめて、玄関へと駆け出した。気付いたマル君が、縁側へ出る窓辺から『ワン!』と一声カイトを呼んだが、カイトは一瞬振り向いただけで振り切るようにまた駆け出した。

大学への行き方は知らない。けれど名前は知っている。大学までは電車で駅3つ。駅の場所は知らないけれど、人に聞きながら行けば辿り着けるだろう。電車は大学前で停まるからきっと分かる。

邪魔になるだろうと思ったいつもの白いコートを脱いで、靴箱の上に畳んで置く。靴は当初のものではなくて、環が買ってくれたスニーカーに足を通した。マル君が何事かと玄関までやってくる。
何故ならカイトは今まで一度だって、外に出たことがないのだから。
「マル君、お祖母さんにお手伝いできなくてごめんなさいって伝えておいて!」
慌てているカイトは、そんな無理難題をマル君に押し付けると玄関を飛び出した。

そして状況は冒頭に戻る。




「・・・・駅って、どこ?」

とりあえず道行く人々に声をかけてみたが、朝だからだろうか、誰もが足早で、カイトの声に立ち止まってくれる人々は少ない。それに見るからにボーカロイドであるカイトを若干敬遠している節もあったのだが、カイトはまだそれを知らなかった。
カイトの声に耳を貸してくれる人々もいたが、説明される度に分からなくなる。
「えと・・・、『サリエリ』を左に曲がる?サリエリって・・?・・・え、カフェ?」
などという会話を繰り返している内に、相手は誰もが呆れたような表情で去っていってしまう。一旦家に帰って道を調べるようアドバイスをくれる人もいたが、道行く人々に声をかけている内に方向が分からなくなり、家がどちらにあるかももう分からない。

カイトは完全に迷子だった。

途方に暮れて、往来の真ん中で座り込みそうになった時だった。


「何、してるんですか?」


よく知った声が聞こえた。いや、知っているも何も、それは―――自分の声。
顔を上げたカイトの目線の先に、自分と同じ顔をした青年が立っていた。片手には、赤い文字でロゴの入った袋を持っている。あれは、環がよく買い物に出かけるスーパーの袋だ。

「カイト・・・」

思わず自分のものであるはずの、その名前を呟いた。
「そんなところでボーっとしていたら、往来の邪魔でしょう」
少し怜悧とも取れそうな口調だった。

「ぼ、僕、マスターを捜してて・・・。駅が分からなくて・・・」

その言葉に、怪訝そうに相手の表情が曇る。
「迷子?」
言い当てられてカイトは言葉に詰まったあと、頷いた。それを見たもう1人のカイトは、溜め息をつく。一度ちらりと持っているスーパーの袋を見て、諦めたような表情を浮かべた。

「せっかくのダッツが・・・」

「え?」
ひそめた声に、思わずカイトが身を乗り出せば、恨めしそうな顔で睨み返された。
「もう!ほら、さっさと行きますよ!」
空いている方の手で肩を叩かれて、カイトは目をぱちくりとさせる。

「連れて行ってくださるんですか?・・・ありがとうございます!」
「・・・別に、君のためじゃありません」

ぶっきらぼうに言われて、カイトはきょとんとする。

「じゃあ、誰の為なんですか?」

それは訊いてはいけなかったことらしく、カイトはもう1人の自分に頭を叩かれた。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ