神様の珈琲

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僕は人にぶつからないように歩くのが精一杯なのに、目の前を歩くもう1人の僕は、スイスイと人波の間をすり抜けていく。

人が少ない場所に出る頃には、僕はすっかりヨロヨロになっていた。

「大丈夫ですか?」
流石に心配そうにカイトさんは訊いてきた。僕は、マスターの大事な資料を胸に抱きしめて頷いた。
「その資料、ひょっとして大学に行くんですか?」
僕は思わず顔を上げた。
「どうして」
分かったんですか?と言う前に、カイトさんは僕の抱える資料を指差した。
「そのファイルに大学名が書かれています。大学内で配布しているファイルでしょう。・・・・・僕のマスターも持っていますから」
「貴方のマスターも、この大学に?」
今度はカイトさんが頷いた。
「駅はもうすぐですよ。急ぐんでしょう?」
カイトさんは踵を返して、また歩き始めた。


「貴方のマスターって、どんな人ですか?」
僕は何となく尋ねてみた。思えば、彼が初めて会う他のボーカロイド、しかも『僕』だ。他の『僕』は、マスターとどんな日々を暮らしているのかな。
「別に・・・、ただのバカです」
「え!?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。ただでさえ『KAITO』が二人並んで歩いていて目立っていたのに、一瞬周りの視線が僕たちに集中した。
けれど、僕はそれが気にならないくらい本当にびっくりした。まさか僕と同じ顔から、マスターをバカと言う言葉が出てくると思わなかったから。
「えと、・・・おバカさん、なんですか?」
僕がおずおずと言うと、カイトさんはきっと僕を睨んだ。

「マスターはバカですけど、君にバカと言われる筋合いはありません!」

「え?・・・え?」
カイトさんがバカと言ったから、そうなのかと思ったのに、そう言ったら怒られてしまって、僕は混乱してしまう。しかしオドオドとする僕を見てから、カイトさんはふと表情を戻した。

「君、ひょっとしなくても、起動からあまり月日が経ってないんですか?」

いきなり問われて、僕は一瞬きょとんとしてしまい、それからコクリと頷いた。何故分かったのだろう、と思っていると、カイトさんに伝わったのか『だって』と、カイトさんは続けた。
「迷子っていう時点でそうなのかな、って思っていましたし、何より・・・」
そして僕をじっと見つめた。

「僕にも昔は、君みたいな時期がありましたしね」

そして初めて、カイトさんはふっと笑った。

僕みたいな、時期?

よく分からなくて僕は返事に困り、とりあえず会話を続けようと言葉を探した。
「カイトさんは、起動してどのくらいなんですか?」
「僕はもうすぐ1年半経ちます」
今の僕には、それがすごく長い時間のように思えた。声も見た目も同じカイトさんが、とても年長者のように見えた。
少なくとも、僕には1年後の自分が想像できなかった。


少ししてから、僕たちは駅に着いた。路線図の前に立って、カイトさんは僕を振り返った。
「大学までは3駅なので、220円です」
そう言うと、何やら同じものがたくさん並んだ機械を指差した。僕はそれを呆然と見る。
「・・・・電車って、お金がいるんですか?」
すると今度は、カイトさんが唖然とする。
「知らなかったんですか?切符を買わないと、電車には乗れません」
『そんな』という言葉を発する前に、今度は『どうしよう』という想いが胸を衝いて何も言えなかった。僕の持っているものは、マスターの研究資料だけ。お金なんて、頭になかった。
「ひょっとして、無一文ですか?」
無一文。お金を持っていないことだ。僕は頷いた。すると、呼吸を必要としないはずの僕たちなのに、目の前のカイトさんは大きく溜め息を吐いた。マスターみたいだと思った。カイトさんは、振る舞いがとても人間っぽい。僕と同じ、数いる『KAITO』の1人だとは思えないくらいに。カイトさんはきっととても、彼のマスターの役に立っているに違いない。
僕は自分とカイトさんを比べて、何だか胸が重くなる気分になった。
なんだろう。

「分かりました。ここは僕が持ちます」

溜め息交じりにカイトさんが言う。持つ?持つって、何を?不思議そうな顔をする僕に気付いたのか、カイトさんは言いなおす。

「代わりに僕がお金を払います」
「そんな」

お金はとても大切なものだ。少なくとも僕は手に入れる術を知らない。

「僕だって、このお金はマスターから買い物のために預かっているものだから、勝手に何でもかんでも使っていいわけじゃないですけど」
「じゃあ・・・」
「でもマスターなら、ここでは払ってあげると思います」

僕はぽかんとして、口を開けた。
「マスターなら、って、カイトさんはマスターの気持ちが分かるんですか?」
僕はマスターの考えることはいまいち理解できない。いつだってマスターのことを考えているのに。マスターは僕の考えなんていつでもお見通しで、僕の言って欲しいこと、して欲しいことを叶えてくれるのに、僕はマスターに何も返せない。

僕はまだまだ、いろんなことが分からない。世界は見れば見るほど広がって、何ひとつ追いつけない。現に、僕は電車を知っていたのに、切符を買うものだとは知らなかった。

「・・・・分からないことは、悪いことではないんですよ」

聞き覚えのあることを、僕と同じ顔が言った。そして何かの機械に小銭を入れて、スイッチを押した。下から、小さな紙切れが出てくる。それを手にとって、僕に渡してきた。
「大切なのは、『知っている』ということではなくて、『知る努力』をすることです」
僕は紙切れを受け取る。
「僕にも、何ひとつ分からない時期はありました。今でさえ、分からないことはまだまだたくさんありますよ。・・・・人間にも、あるくらいなんですから」
渡された小さな紙切れと、カイトさんの顔を交互に見る。
「不安もあるでしょうが、マスターのためならやれるでしょう?」
それが僕たちなんですから、とカイトさんは笑う。あ、と僕は分かった。きっとカイトさんは、彼のマスターのことをとても大事にしている、と。当たり前のことなのに、今やっと、きちんと理解できた気がした。
「それが切符です」
僕は自分の手の中にある紙切れを見る。
「そしてあれが改札です。あれに切符を入れて通り抜け、出てきた切符を取る。電車に乗って、3つ目の駅で降りて、また改札を同じ方法で通り抜ければ、外です。降りた時は改札から切符は出ないので、そのまま通り抜けて良いですよ」
分からなければ人間の真似をしなさい、とカイトさんが付け加えて、僕は頷いた。

「ありがとうございました」

僕は笑ってお礼を言った。



電車に乗ってからは、今までの苦労が嘘のように簡単に大学まで辿り着けた。カイトさんの言う通りにしておけば問題なかったし、分からない時は回りの人間の真似をしていれば誰も怪訝そうな顔はしなかった。
けれど、大学に入ってからは、とても居心地が悪い。街中でもそこそこ『KAITO』である僕は目立っていたけれど、大学は特定の人々だけが集まる場所だからか、ボーカロイドは酷く異物のようだった。『何でボーカロイドが大学に?』と言う声が四方から聞こえてくる。
僕は僕で、街中と変わらないと思えるくらいの人の多さに、またも途方に暮れそうだった。この中からマスターを捜すなんて、と。

そして、意味もなく視線を集めながら敷地内をウロウロとしていると、急に後ろから肩を叩かれた。

僕はびっくりして飛び上がり、慌てて後ろを振り向いた。
「あれ?」
相手は僕を見るなり、不思議そうに首を傾げた。
「俺のカイトじゃない」
「・・・・・あ、あの」
僕が混乱しているのを見て取った相手は、悪いね、と笑った。マスターがする暖かい笑みではなかったけれど、子供のような、元気な笑い方だった。
「何か、『KAITO』が大学内をウロウロしてるって聞いたから、ウチの子かと思ったけど、違ったみたい」
と、言うことは、彼も『マスター』なのだ。
「あ、あの、僕、マスター捜してて・・・」
僕が混乱残るままそう言うと、『けなげ〜』と彼は感動したように僕の肩を叩いた。
「同じ大学にボカロマスターがいたとはねえ。あ、そういやいたね」
僕が呆然としてるのに気がつかないのか、彼はぶつぶつと言っている。
「あ、無闇に捜しても、大学は広いから見つからないと思うよ。学生課とかに行って、放送かけてもらったら?」
急に僕を振り返ったかと思うとそうアドバイスされて、僕は資料をぎゅっと抱え込んだ。

「ありがとうございます!」

ぺこりと頭を下げると、また感動したように『おお〜』と言うと僕の頭を撫でた。マスター以外から撫でられたのは初めてだった。
「ウチのカイトも、これくらい可愛げがあったらいいのに」
苦笑する彼はそれでも、僕の方がいいと言っているようには見えなかった。
「ちなみに、君のマスターの名前は?」
そう聞かれて、僕は今まで呼んだことのなかったマスターの名前を口にした。

相手の目が飛び出しそうなほどまん丸になったので、とても不思議だった。


どうやら彼はマスターと知り合いだったらしく、携帯電話でマスターを呼んでくれた。中庭のベンチで彼と座って待っていたら、遠くにマスターが見えて、僕は思わず立ち上がってマスターの元へと駆け寄った。後ろから彼の『いいな〜』と言う呟きが聞こえたけれど、もうどうでもよかった。

「カイト?どうしたの?」

少し驚いたようにマスターが僕を迎えた。僕はこの道のり抱え続けた資料をマスターに差し出す。それをマスターは、また少し驚いた表情で見た。
「これは・・・・・、カイト、これを届けに来てくれたの?」
僕は頷いた。資料を受け取りながら、マスターは黙って僕と資料を交互に見ている。思っていた反応と違って、僕は不安になる。もしかして、余計なことだったのだろうか。

「・・・道中、大変だったでしょ?」

ふいにそう言ってマスターは、僕のヨレヨレの服装をぱっぱっと手直ししてくれた。ひょっとしてマスターは、言ってもいないのに道中にあった僕の苦労を想像できてしまったのだろうか。
やっぱりマスターはすごいな。

「・・・・コレなしじゃ、発表は出来なかっただろうな」

マスターはぽつりと言った。そして見たことないような表情で微笑んだ。

「カイト、ありがとう。本当に助かったよ」

そうして僕を軽く抱きしめて、頭をポンポンと撫でるように叩いてくれた。労うようで、温かな感触だった。ああ、来て良かった。僕は心からそう思った。


マスターの研究発表が終わるのを待って、僕はマスターと一緒に、また電車に揺られながら帰路についた。電車の中で、駅から家までの道のりで、僕は今日あったことをマスターに話した。マスターはもう1人のカイトの話を聞いて、意味ありげに『へえ』と言ったけれど、やっぱりその意味は分からなかった。
マスターは、『今日も色んなこと知れて、良かったね』と微笑んでくれたので、僕も『はい!』と笑った。


家に帰ると、心配していたのか玄関で待つマル君に跳びつかれてしまった。

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