神様の珈琲

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30前後といった年齢層の男女が多い中、やはり初音ミクは一際存在感を放っていた。

夜のジャズクラブ。照明は暗く、酒の匂いが下品でないように漂っていては、ライトアップされたミクは神々しささえ持っているように見える。手を胸の前で握り締め、目を閉じて口を開く様は祈っているようでさえある。
そこから紡がれる声は、繊細で甘く、それでいて一本の意志を貫いているようだ。

環はブランデーを啄ばみながら、アンサンブルの中心で歌う初音ミクを見ていた。
「お客さん、久しぶりですね」
ふいにカウンターから声が掛かる。
「ああ、マスター。お久しぶりです」
最近は自分がマスターと呼ばれることが多かったので、彼をそう呼ぶのはどこか変な気がした。
「もうウチのミクの歌に飽きてしまったかと思いました」
環は苦笑する。そもそも、環はこのクラブの常連ではない。たまたま友人と来て、初音ミクの声を聞いてから、ボーカロイドに興味を持ってカイトを迎えるまでに数回来た程度だ。おそらくマスターにはミクのファンだと思われたのか、来る度に話し掛けられていたので、親しいといえば親しいのだが。
「飽きるとかは、ないですよ」
その言葉は嘘ではない。マスターはこの店のマスターであり、あの初音ミクのマスターでもある。だからこそ、環のことをミクのファンだと思っては話し掛けずにはいられなかったのだろう。彼は一見、あの繊細な歌声を調整しているとは思えない、威圧感のある風貌をしている人だった。このクラブにしたって、クラブのマスターと言うよりはクラブの用心棒と言われた方が納得しそうなものだ。
「そうか、嬉しいな」
自分のボーカロイドを褒められて嬉しいのか、マスターは敬語も忘れてニカっと笑う。人情味のある笑みだと、環は思った。

「ええ、ただ最近は僕もボーカロイドを迎えたので、ここに来る暇もなかったんです」

そう言うと、マスターは意外そうに目を丸めた後、嬉しそうに笑う。
「そうなんですか!それはそれは・・・、ミク、ですか?」
やはりミクのファンだと思っているらしい。何だか期待を裏切るような気がして、環はまた苦笑してしまう。
「いえ、カイトです」
「カイト」
またまた意外そうに目を丸めた。KAITOの需要が低いのは本当らしい、と環は思った。もともと環は、ここであの歌っている初音ミクに会うまでは、ボーカロイドは名前でしか知らない存在だった。1番人気と言われている初音ミクの容姿と名前を、ぼんやりと知っている程度だった。その後、ボーカロイドを取り扱っている施設で声の試聴をして、ミクではなくカイトに決めた。だから環は、誰がどれくらい人気なのか知らなかったし、元より興味がなかった。

「じゃあ今度、連れて来て下さいよ」

クラブのマスターの口をついたのは、予想外の言葉だった。てっきり、ミクのファンじゃないのか、とか何でカイトなのか、とかを訊かれると構えていたのに。
「いや、俺もそろそろ男声が欲しいと思ってて、カイトかレンのどちらにしようかと悩んでいたんだ。でもお客さんのカイトとデュエットさせてくれたら、金も浮くし」
ボーカロイドマスターが自分以外にいたことが嬉しいのか、マスターは完全に敬語を忘れていた。環はそれが気になったわけではなかったが、思わず頬が緩む。
「では、デュエットできる曲はマスターが用意してくださいね」
「あー、そのマスターってやめません?」
ふいに、クラブのマスターと客、という立場を思い出したのか、気まずそうにマスターは頭を掻いて敬語に戻す。
「何か、お客さんたちにまで、ボーカロイドマスターって言われている気がして」
今度こそ環は笑った。
「そうですね。僕も最近はマスターって呼ばれることが多かったので、他の人をマスターって呼ぶの、少し奇妙な気がしてたんです」
それを聞いて、マスターが豪快に笑った。
「そうかもしれませんね!」
そう言って環に手を差し出す。

「島津康介だ」
「鳥羽環と申します」

環は手を伸ばして、康介の手を取った。



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ちょっとした幕間みたいなものです。

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