神様の珈琲

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ボーカロイドは、今までにないメモリー機能の増幅、学習型人工知能の搭載をし、人間に限りなく近い感情表現と思考能力を持ち合わせたアンドロイドだ。
アンドロイドである限り人権を持ち得ることはないが、ボーカロイドに対しては特別な、人道的な法令や措置が取られることがある。
ボーカロイドは、店頭での売買は禁止されている。人間にあまりに近いボーカロイドを店頭で販売することは、人身売買を錯覚させるからだ。ボーカロイドを迎えたければ、各地にあるボーカロイドの支部施設に行って、マスターとしての資格を問う簡単な適性検査や精神鑑定を受けなければならない。それをクリアしてから、声の試聴やパンフレットを見て迎えるべきボーカロイドを選び、初めてボーカロイドが作られる。ほぼオーダーメイドなのだ。そういう手に入れるまでの手続きの面倒さや、オーダーメイドゆえの高価さや時間の手間が、ボーカロイドが知名度ほど普及しない原因の一つだった。

各地に散らばる施設は支店のようなものであり、検査や鑑定を行ったり壊れたボーカロイドの簡単な修理をしたり、検査を通った新マスターのボーカロイドの受注をしている。ボーカロイドを製作・解体するのは本部の研究機関だけだった。




「マスター、康介さんからお電話です」
リビングのソファで大学の研究の参考資料に目を通していた環は、自分の携帯電話を手にしたカイトを見上げた。どうやらバイブ設定で聞こえなかったのを、カイトだけが聞き逃さなかったようだ。携帯電話のディスプレイには、着信マークと『島津康介』の名前が表示されている。環は携帯を開いて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『よう』
機械越しに、男らしい声が聞こえてくる。
「どうかしましたか?」
環のカイトと康介の初音ミクをデュエットさせよう、という提案を出されカイトと対面させて以来、康介とはよく携帯で連絡を取り合ったり、世間話をしたりするようになっていた。
『あー、いや、その』
康介にしては珍しく、歯切れの悪い返答だった。いつでもなんでも、明け透けに話す快活な男だったはずなのに。
「康介さん?」
『・・・お前に頼みがあるんだ』



「マスター?」
カイトは、神妙な表情で携帯を切る環に声をかけた。
「康介さん、どうかしたんですか?」
カイトは耳がいい。おそらく、携帯の会話も聞こえていたのだろう。だが環も、まだ事情はよく分からなかった。
カイトを康介に対面させた後、環は善史たちと康介たちを会わせていた。康介は善史が所有するボーカロイドの数に感動しつつも、ミクだけいないことに不平を言っていたし、『優しい兄』に憧れを持つ善史は、どちらかと言えば厳つい印象を持たせる康介に若干尻込みをしていた。しかしボーカロイドの話になると、両者とも目の色を変えて、自分のボーカロイド自慢をしたり相手のボーカロイドを褒めちぎったりと、一緒にいた彼らのボーカロイドたちの方が恥ずかしがる程、熱く語っていた。環は物静かな性格だからか、よく口の動く二人を見ているのは面白かった。その康介が、どこか深刻そうに口を重くしているのは、よっぽどのことがあったのかもしれない。
「・・・ちょっと出てくる。カイト、おばあちゃんに言っといて」
「分かりました」
気をつけて、とカイトは言い足すと、環が出かける時にいつも着るコートを差し出した。
「ありがとう」
環は一言言うと、足早に家を出て行った。



黒いガラス製の扉は、いかにもジャズを思わせる。『CLOSE』の札を無視して扉を押せば、店舗内の音楽に混じるようにベルが小さくチリンと鳴った。
まだスタッフが清掃や仕込みをしている中に、環はゆっくりと歩いていく。そんな環に気付いたスタッフの1人が、『あ、』と声を上げて足早に近寄ってくる。
「あの、マスターに呼ばれてる方ですよね?」
彼が言う『マスター』とは、このクラブのマスターと言うことだろう。環は頷いた。
「奥に案内するように言われています。どうぞ」
そうしてスタッフが促したのは、カウンターの奥にある『STAFF ONLY』の扉。もちろん環が入るのは初めてだった。カイトと対面させたのは、クラブの裏口から入れる康介の自室だったからだ。
環はカウンター脇から中に入り、奥の扉へ向かう。『どうぞ』とスタッフに言われ、環はノックをして扉を開けた。
「康介さん?失礼します」
断って入ってみればそこは従業員の為の、休憩室のようなものなのだろう、たいして広くないスペースに事務机と更衣室、ロッカーが設えられてある。その机に、過労死寸前のサラリーマンのように倒れこんだ康介がいた。脇には、環に連絡を取ったのであろう携帯電話が転がっている。そして傍には、心配そうな表情で見守っている初音ミクがいた。
「ミクちゃん」
環が声を出して、初めて初音ミクは視線を康介から環へ移した。
「環さん」
「康介さんどうしたの?」
環が尋ねれば、ミクは呆れたように溜め息を深く吐いた。
「私は、やめておいた方がいいって言ったんですよ」
非難するようにも聞こえたし、もう諦めてしまっているようにも聞こえた。
「何を?」
「それは」
「俺が説明する」
ミクの言葉を遮るように、康介はのそりと体を起こした。

「悪いな、環」

疲れている、というよりは悩んでいる顔で、康介は環に謝った。




聞き慣れた足音を、カイトは聞いた。嗅ぎ慣れた匂いを、マル君は嗅ぎ取った。しかし、彼らの主人の他にもう一つ別のものが混じっているのに、両者とも気付いていた。いつものように迎えるために玄関へ進みながら、カイトとマル君は不思議そうに顔を見合わせた。

「ただいま」

環が玄関のドアを開けて、家に入ってくる。そしてマル君は首を傾げ、カイトは目を丸くした。

環の横に、見知った少女がぽつんと立っている。カイトとマル君を見ても、全く動かない彼女の表情の代わりであるかのように、頭の白いリボンがゆらゆらと揺れた。


鮮やかなその黄色い髪の毛さえ、くすんで見えてしまうような暗い表情をした鏡音リンがいた。


「マスター?」
どういうことかを訊ねようと、カイトは視線を環に移した。善史の家のリンではない。彼女のような爛漫さが、このリンにはどこにもなかった。
カイトに呼ばれて、環はカイトではなくリンを見下ろした。彼女の揺れるリボンを見つめながら、康介の言葉を思い出した。

「うちで、この子を預かることになった」
「―――――え?」

カイトは環とリンを交互に見る。自分のことが話されているのに、リンは微動だにしなかった。
「それが康介さんの頼み」
「預かるって・・・・康介さんの頼みって・・・、じゃあ、このリンのマスターは、」
「・・・康介さん」
そんな、とカイトがうめいた。

「ボーカロイドを、マスターから引き離すなんて・・・」

まるで自分のことのように、カイトが表情を歪めた。だが、環は取り合わない。ここにリンが居るという時点で、環は康介の頼みを引き受けた、ということだ。
「康介さんと少し話をした。僕も最初はそう思ったけど、こうするしかないと思った」
環はリンの手を引きながら靴を脱いで玄関を上がり、カイトに歩み寄る。そして空いた方の手でカイトをいつものように撫でた。環の笑顔はどこか、痛みを堪えているようでもある。

「カイト、いつまでかは分からないけど、リンと仲良くしてあげて」

その表情の理由は分からなかったが、カイトは拳を握り締めて頷いた。

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