神様の珈琲

□12
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「いらない」
マスターは嫌いだと言っていた、タマゴが入ったサラダをゴミ箱に捨てた。

「いらない」
マスターは気に入らないと言っていた、楽譜をビリビリと破って捨てた。

「いらない」
マスターは趣味じゃないと言っていた、買ったばかりの携帯を壁に投げた。


「いらない」
マスターはもう飽きたと言って、私たちを指差した。




「カイトは、返品されたボーカロイドがどうなるか知ってる?」
環がリビングのソファに、疲れたように沈み込んでいる。その傍らにカイトは立って、首を傾げた。
「マスターから『もういらない』と言われたボーカロイドが、どうなるか」
その言葉を聞いて、カイトが悲痛に顔を歪めた。
「言っておくけど、僕は君にそんなことは絶対言わないよ」
若干呆れたように環は付け加えた。
「・・・知りません」
例え話だろうと、カイトは無いはずの寿命が縮んだ心地だった。

「支部の施設で預かった後に本部の研究施設に送られて、そこでメモリーの初期化を行うんだって。そうして『中古でいい』と言う次のマスターからその型の注文がくるまでストックされる」

ボーカロイドは高価だ。だから犯罪に巻き込まれることがある。だからオーダーメイドで作る際は、そのボーカロイドの体内には登録された信号を入れて、マスターの元へ送り出した後も本部で居場所を管理するようになっている。
ボーカロイドの誘拐や、偽造防止のためで、もういらなくなったからと言ってゴミとして勝手に廃棄はできない。必ず施設に『返品』して登録を取り消ししなければならないのだ。
「・・・ストック」
「状態が良ければ、廃棄せずに保存されるってことだね。支部の施設では行わずに全部本部でやるみたい。そして中古品として安く提供される。まあ、製作費用がかからない分、当然だね」
カイトが悲しそうに、眉をハの字にする。この反応は環の想定内だったので、苦笑する。

「歌や『マスター』を、忘れさせられるんですか?」

ボーカロイドにとって『マスター』がどんな存在なのか、人間の環には一生分からないだろう。けれど、とても大切な存在なのだということは、共に暮らせば肌で感じる。
「マスターを忘れないと、新しいマスターの元へ行けないからね。行けなければ、廃棄しかない」

どちらが幸せなのだろう、と環は思う。

自分をいらないと言った人間のことなどきれいさっぱり忘れて、新しいマスターの元へ行くことは、人間から見れば良いことのように思う。

けれどボーカロイドは人間ではない。自分をいらないと言ったマスターでさえ、ボーカロイドにとっては唯一無二で至上の存在なのではないか。

いらない、と言われてしまっても、それでもボーカロイドにとってはかけがえのない記憶なのではないのだろうか。

それを忘れることは、ボーカロイドにとって・・・・。

環には分からない。環には、決して自分はそんなことをカイトには言わないだろう、ということしか分からない。


「―――僕は」


か細い声で、カイトが言った。

「忘れたくないと思います」

何を想像したのか、泣きそうな顔でカイトは服の裾を握り締めている。
「例えマスターにいらないって言われても、それでマスターの傍にいることが叶わなくなっても、・・・いえ、だからこそ」
伸びきってしまいそうなほど、裾を力強く握っている。破けるんじゃないか、と環は思った。

「忘れたくない。傍に居られないのなら、『いらない』と言われたことでさえ、僕らにとっては『マスター』との貴重な思い出です」

分からない、と環は思う。それでは、前に進めないというのに。

人間の時間には限りがある。だから、辛くても悲しくても、それを切り捨てて先に進まなければならない時がある。けれどボーカロイドには迫る時間がない。少なくとも、それを意識するというプログラムがボーカロイドにはない。

だから、いつまでも一つのところに留まろうとするのだろうか。

「そうか。だったらやっぱり、カイトには分かるんだね」
「え」

「リンの気持ち」

カイトは目を丸くして、もう眠ったリンが居る二階を見上げた。
「リン?」
環は頷く。

「あの子はね、前のマスターに『いらない』って言われて、施設に返品された子なんだって」

カイトは衝撃を受けたように固まった。今まで話していたことは、カイトにとっては想像の中の例え話だった。まさか本当に、自分のボーカロイドに向かってそんなことを言う人間がいるなどと、経験の浅いカイトには信じられないことだった。
「それで初期化をするために、支部施設で『鏡音レン』と一緒に留置されていたところに、ミクちゃんのメンテナンスに来ていた康介さんと出会った」
「康介さん」
二階で眠るリンは、本来は島津康介のボーカロイドで、鏡音レンとセットのはずだ。しかし環が『預かった』と言って連れ帰ったのは鏡音リンだけだった。
「康介さん、男声が欲しくて『KAITO』と『鏡音レン』で迷ってたんだって。でも僕がカイトを迎えたから、まあいっか、って思ってたらしいけど、施設で鏡音リン・レンを見て、」
「・・・欲しくなった?」
カイトが言えば、環は頷いた。
「康介さんはお金の心配をしていたから、中古なら、と思ったって。あとあの人はああ見えて人情家だから、多分同情も混じってたと思う。ともかく、康介さんは支部施設で二人を見つけて、彼らの初期化が終わったら迎えるって予約を入れた」
カイトは心配げにまた二階を見つめる。

「そして数日後、康介さんの元に届いた知らせは、彼を驚かせた」

カイトは不思議そうに視線を二階から環に戻す。

「何度やっても、二人のメモリーの初期化が行えない、と」

カイトが目を瞠る。
「それ、は・・・」
「機械であるはずの二人は、けれど決してプログラムの言うことを聞かなかった。絶対に二人の『マスター』を忘れないのだ、と初期化をしようとするとエラーを引き起こした」
カイトは、何かを悼むように目を伏せた。カイトには、リンの想いが分かるのだろうか。
「初期化できないから、二人の廃棄が決定した。康介さんはそう言われたって」
「そんな!」

「康介さんも、そう思ったって。だから、二人を引き取った」

カイトは驚いたように、また服の裾を握り締めた。
「マスターが他に居る状態のボーカロイドを?」
「正確には違う、かな。康介さんが言ってたけど、ボーカロイドの『メモリー』と『マスター登録』って違うシステムなんでしょ?リンとレンが初期化出来なかったのはメモリーだけで、マスター登録は初期化出来てるんだ」
カイトは困ったように眉を寄せた。

「・・・つまり、以前の方をマスターと認識していないけれど、思い出だけは持っているってことですか?」

環は溜め息と共に頷いた。
「複雑だね」
人間に模して造られたアンドロイド。中でも感情豊かと謳われるボーカロイド。1番人間に近い、それでも、人間ではない。人間には、理解しがたい。カイトが、人間の中で暮らして毎日のように『分かりません』と言うように、同じくらい、アンドロイドの想いを汲むことは人間にとって難しい。

マスターとの思い出を忘れたくなくて、メモリーを初期化したくないと思うのは何となく環にも分かる。
けれど『マスター』という存在を失いたくないのなら、どうしてマスター登録の初期化は許したのだろうか。

「・・・康介さんは、どうしてリンだけをマスターに預けたんですか」

環は考え込んでいた意識を、カイトに引っ張りあげられる。

「・・・・・やっぱり以前のマスターの思い出があるせいか、リンもレンも康介さんをマスター登録しても何だか不安定なんだって。リンを見ても分かると思うけど、初期設定として元気なはずのリンが無口で無表情。康介さんの言うことは聞くけど、それ以上康介さんと関わろうとしない。歌も歌わない」
「ボーカロイドなのに」
そのボーカロイドであるカイトは尚のこと、歌わない、ということを異常だと感じるのだろう。驚いたというよりは、呆れたような信じられないと言うような響きだった。

「特にレンが酷いらしい。いつもどこかイライラして、けれどそれを押し殺すように耐えて、たまに物に当たる。康介さんたちやミクちゃんには当たらないけど、物に当たるたびにレンの方が負傷する」

カイトがまた、痛ましげに眉尻を下げる。
「とにかく二人とも不安定で、康介さんだけじゃ二人同時に目が届かない」
「だからマスターに?」
環は深い吐息と共に頷いた。

「康介さんも、多分複雑な心境だったと思うよ。自分自身に不甲斐なさも、感じてるみたいだし。二人が抱えているのは、所謂『心の傷』。それを、康介さんは癒したい。けれど、忙しい身で二人同時は無理だから、カイト、君みたいな子が居る家にせめてリンだけでも、って」
「僕?」
「康介さん、康介さんだけじゃなくて善史君もだけど、君に感心してたよ。素直で実直な、いい子だって。君みたいな子が育った環境なら、リンも心を開くかも、って」

カイトは目を丸くして一歩後ずさる。
「ええ?」
「僕も鼻が高いよ」
いまいちピンと来なかったが、何だか環が喜んでいるみたいだったので、カイトはこれでいいんだろうと思うことにした。

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