神様の珈琲

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部屋の窓はきっちりと閉じられているけれど、カーテンは僅かな隙間を作っていた。そこから差し込む月光が、リンの髪を静かに煌めかせていた。
カイトはベッドに横たわるリンの白い顔を見下ろして、起こしてしまわないようにそっと脇に腰掛けた。そしてその幼さの残る小さな頭をゆっくりと撫でた。先日撫でた同じ頭の子は、太陽のような笑顔を向けてきたのに。
カイトのきれいな形の眉は自然と下がる。

「リンの気持ち、分かるよ」

こぼれた言葉は、しっとりと夜に溶け込んでいく。
「少なくとも、きっとマスターよりは」
カイトはそう言うと、また眉を下げた。すると、撫でるカイトの掌の下、ぱちりとリンの空色の瞳が開いた。そしてカイトの手を見上げるようにすると、ゆっくりとその小さな手でカイトの手を除ける。

それは『拒絶』ではないが、『拒否』だった。

カイトはそれに驚きも傷付きもせず、ただ更に眉を下げる。
「ごめんね」
カイトはとりあえず謝った。何に対して謝ったのか、自分でもよく分からない。馴れ馴れしく撫でたことか、軽々しく『分かるよ』と言ったことか。リンは黙って、カイトがいる方向とは反対の方へ頭を向ける。

「リン、僕がこの家に来た時マスターがね、分からないことは分からないって言っていいんだって、嫌なことは嫌だって言っていいんだって、教えてくれたんだよ」

リンは顔を窓の方へ向けたまま、ベッドの脇に座るカイトを見ようとはしない。

「・・・リン」

もう一度名前を呼ぶ。カイトは、リンに振り向いて欲しいわけじゃない。ただ、どうしても、信じて欲しかった――――環を。そして、他の誰でもない、リンのマスターである、康介を。康介の為に、リンの為に。


「マスターは、絶対に、『いらない』なんて言わないよ」


カイトがそう言った瞬間、リンはくるりと振り向くと、ゆっくりと上半身を起こしてカイトを真っ直ぐに見つめ返した。


「貴方がそう信じている間は、私の気持ちなんて、分からない」


喉の奥、搾り出すような震えた声だった。

「・・・・・帰りたい」

肩を震わせるリンを、カイトは見据えた。
「どこへ?」
空色の大きな目が、はっとしたように見開かれた。
「康介さんの家?それとも・・・・前のマス」
「やめて」
逃げるように顔をそらしたリンの声があまりにも悲痛で、カイトは切られたように胸のあたりが痛んだ。
「・・・出てって」
懇願するように言われて、カイトは押し黙った。何故だか、殴られるよりもきっと今の方がずっと痛いと感じた。


リンに誂えた部屋を出ると、環が腕を組んで静かに立っていた。
「・・・マスター」
しょぼくれたカイトを見て、環はただ苦笑を漏らした。そしていつものように、その青い頭に手を置く。
「こういうものは、時間の問題なんだよ。ただ言葉を重ねればいいってもんじゃ、ないんだ」
「はい・・・」
カイトは俯くように頷いた。ただ、それでも。それでも、一秒でも早く、リンの悲しみが薄くなればいいのに、と思った。




「マスター、どうしてこのサラダ、捨てちゃうの?」

「僕はタマゴが嫌いなんだ」

「マスター、どうしてこの楽譜、破いちゃったの?」

「だって上手くいかなくて、気に入らないんだ」

「マスター、どうしてこの新品の携帯、壊しちゃったの?」

「欲しいのが品切れでその色にしたけど、ホントは趣味じゃない」


「マスター、どうして私たちのこと、いらなくなったの?」


リンはカイトが出ていった部屋の中、ベッドの上で自分の膝を抱いた。肩が震えるのは我慢せず、ただ涙を耐えた。


『だって・・・・・、飽きたんだ』


思い出さないようにしていた声が、何故か聞こえてきた気がして、リンは強く耳を押さえた。

『君たちがリンとレン?』
『僕は******、君たちのマスター』

『君たちの声、好きだな』

けれど、どんなに耳を押さえても、頭の中に響く声。思い出すな、と命じているはずなのに、それに反してメモリーがどんどん記憶を引っ張り出してくる。

『この歌?レクイエムだよ』
『僕が死んだら、僕のお墓の前で歌って』

『分からないの?』
『死ぬまで、ずっと一緒ってこと』

やめて、とリンは叫びたい。けれどただただはじき出されるメモリーを、瞼の裏に映すことしか出来ない。

『今日は疲れてるから、レッスンはまた今度』
『やめて、今は歌なんか聞きたい気分じゃないんだ』

『嫌い嫌い、気に入らない。これはいらない、これもいらない』

リンはぎりりと歯を噛みしめた。そうでもしないと、涙が溢れてしまう。

『君たちって、意外とウルサイよね』
『ああ、もう飽きた。君たちももう、いらないや』

『僕の前から消えてよ』

「・・・・っ!」
リンは両の拳を振り上げると、言葉にならない呻き声と一緒に枕へと振り下ろした。枕がぼすっという低い悲鳴をあげた。

『マスターは、絶対に、『いらない』なんて言わないよ』

その瞬間、呑気な声が思い出された。
彼はリンの気持ちが分かると言った。
けれど。
彼がそう信じている限り、そう信じて裏切られたリンの想いは、きっと分からない。

この世界は、いろいろなモノで溢れている。
ボーカロイドにとって目まぐるしい世界で、人間はいろいろなモノを毎日取捨選択している。

ヒヨコになれなかった卵。
曲になれなかった旋律。
代わりに買われた携帯。

取捨選択する側は、分かっていない。

モノは『いらない』と言われてしまえば、『おしまい』だということを。
彼にとっては、いろいろなモノが溢れる世界で、目の前からサラダと楽譜と携帯と、ボーカロイドの2体が消えただけ。


けれど彼らにとっては、世界の終わり。


『大事にする』なんて、嘘だ。リンは思う。
人間は平気で嘘を吐く。
10回、100回と重ねた言葉を、一言で切り捨てる。
切り捨てた欠片に宿る、万感の想いを考えもしないで。

ボーカロイドは、信じるモノだ。
人間は、裏切る生き物だ。

もう信じられなくなったボーカロイドのことなど、人間でもボーカロイドでも、理解なんてできるはずがない。


リンは枕を壁に投げつけて、より一層強く膝を抱え込んだ。



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冒頭でカイトが言っている頭を撫でた子は、9話参照です。

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