神様の珈琲

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環は暖かい紅茶に、たっぷりとミルクを注ぐ。そしてタイミング良くキッチンに顔を覗かせたカイトに笑いかけた。
「マスター、おはようございます」
「おはよう、カイト」
「マスターは紅茶もお好きでしたか?」
カイトは環の手の中にある、カップを見つめた。カイトは徐々にキッチン周りのことを覚え始めていた。起床後や帰宅後の環に、好きだと教えてもらったコーヒーを淹れるのが、最近のカイトの役目だった。紅茶も好きなら、淹れ方を覚えたい。
「まあ、紅茶も好きだけどね。・・・これはリンに。カイト、持って行ってあげて」
小さな盆に、ソーサーとカップを乗せる。砂糖とスプーンも忘れずにつけて、カイトに差し出した。
「多分リンは、人間よりはカイトの方が良いと思う」
昨日素気無く追い出されてしまったカイトにとって、その言葉は甚だ疑問だったけれど、環が持って行けと言うのなら、カイトに「否」という言葉を言う選択肢はない。
「分かりました、マスター」
昨晩、泣きそうに肩を震わせたままのリンをひとり部屋に残したのは、カイト自身、心残りな部分もあった。盆を受け取って、カイトは二階へと向かった。


カップの割れる音が鳥羽家に響いたのは、そのすぐ後だった。


バタバタという足音が、階下から近付いてくる。カイトはそれでも、リンの部屋の前で呆然と立ち尽くしていた。足元で割れたカップ。転がったスプーンと盆。急速に冷えていく紅茶。階段を上りきった環はそれらを見てから、カイトへと視線を持ち上げる。カイトはただただ、部屋の中を見つめている。つられるように、環はリンに誂えた部屋を覗き込んで、息を飲んだ。

毛布をめくったあとだけ残るベッドと、大きく開け放たれた窓。
部屋の中には誰もいない。

「・・・ボーカロイドって、家の二階から飛び降りても平気なの?」
「・・・下には植木がありますし・・・、リンは僕と違って最新型だから・・・」

大丈夫、と言うようにカイトは言ったが、次の瞬間には窓に駆け寄っていた。環も続くように部屋に足を踏み入れた。もともと、環が子供時代に使っていた部屋だ。両親が死んでから、環はこの部屋を出て両親が使っていた部屋へと移った。
ベッドに近付くと、枕もとに一枚紙切れが置いてある。手にとって眺めれば、真ん中にただ一言。

『ごめんなさい』

床に一本、ペンが転がっていた。いつもならリビングに常備しているペン。まだ誰も起きていないような早朝、こっそりリビングまで降りて書いたのだろうか。

歪みのない字が、リンの覚悟のように思えた。

それと同時に環は、不思議な気分で字を見つめた。
カイトは字を書けない。ボーカロイドには辞書が搭載されているから、どんなに難しい字でも、人間より読むことが出来るが、『書く』という動作は出来ない。
というよりは、ボーカロイドなのだから歌を歌うために必要な最低限のこと以外、最初から出来るようには造られていない。実際カイトは当初箸を使えずに、どうにかスプーンを『握る』ことで食事をしていた。環が教え込んで最近やっと箸の使い方を覚えたのだ。

(というか、まあ、実際は食事自体、必要じゃないんだけど)

つまりは教えてあげないと、ボーカロイドが自分から何かを覚えることはないのだ。『だから、』と、環は自分の手の中の紙切れをもう一度見る。そしてそこに書かれた文字を。
リンは教えてもらったのだ、文字の書き方を。以前のマスターに。

歪みのない、きれいな字だ。これだけ教え込むのは、大変だったろう。

教えてあげよう、という熱意。
教えてあげる労力。
練習に付き合う時間。

環は、見たこともない、知らないはずのリンのマスターを想った。



「僕、リンを捜しに行って来ます!」
カイトはリンの部屋を出ると、勇み足で階段を駆け下りた。しかし環は、ゆっくりと後を追いながらカイトを制止する。
「どこを捜すつもり?」
カイトの足がぴたりと止まり、アンドロイドらしくカクカクとした動きで環を振り返った。
「えと・・・」
「リンは見た目は子供だけど、メモリーが初期化してないってことは、稼働期間は君より長いんだよ。おそらく君よりずっと、外のことを把握している。しかもいつ出て行ったか分からないから、だいぶ時間が経っている可能性もある。今無闇に飛び出して、リンが見つかるとは思えない」
言い返す言葉もないのか、それとも元々マスターに言い返すなんていう考え自体ないのか、カイトはシュンと落ち込むように項垂れた。
「君たちに埋め込まれている信号は、何のため?」
苦笑が混じりながら、環は言った。カイトは小さく『あ』と口を開けた。
「康介さんから暗証番号は聞いてる。本社に問い合わせれば、すぐにリンの居場所は検索してもらえる。僕たちがしなきゃならないのは、まずはそれ」

高価なボーカロイドの誘拐・偽造防止のため、オーダーメイドされる際に、GPSを応用した信号を埋め込まれる。マスター登録と同時に暗証番号が決められ、本社に問い合わせればいつでも、その番号を持つボーカロイドの居場所は教えてもらえる。だが暗証番号自体は、本社からはマスター本人にしか伝えないので、問い合わせに対して本人確認などは一切しない。その番号を自分だけ知っておくのか、家族や知人にも教えるのかはマスター次第だが、その結果何らかの損害があっても本社は補償しないことになっている。

「何かあったときのために、って康介さんに教えてもらってたんだけど、こんなに早く使うことになるなんてなあ」
不甲斐ない気分を押し込めて、環は電話へと足を向けた。



鼻先に当たる冷たい感触に、リンは空を見上げた。
「雨・・・」
すぐに顔を下げて、また何処とはなしに視線を彷徨わせる。環の家を出て、ただフラフラと歩いた。どこかへ行きたいわけではなかった。それでも、どこかへ行かなければならない気がして足は止まらない。

帰りたいと思った。

けれど昨晩、カイトにどこへ帰りたいのかと尋ねられて、リンは答えられなかった。
前のマスターの元へなど、帰れるはずがない。帰ろうとも思わない。

では新しいマスターの元、だろうか。

そう考えて、リンは否と打ち消した。そして次には、ただあの家に居たくなかったのかもしれないと思った。『マスター』を信じているカイトが、カイトを大切にする環が、二人の間にある絆が、ひどく煩わしい。優しい老女も、足元で静かに寝る犬も、ただただ穏やかで、だからリンには触れれば砕けるガラス細工のようにも思えた。

雨足が強くなり、リンはコンビニの軒下に入った。学校をサボっているのだろうか、男子高校生のグループが同じように雨宿りをしながら、物珍しげにちらちらとリンを見ている。なんとなく居心地が悪くなって、5分もせずにリンはコンビニを後にした。

近くにあった公園に入り、タコを模した滑り台の内部に潜り込んだ。まだ平日の昼であることと、激しくなるばかりの雨のおかげで、公園には人っ子一人いない。
ひんやりとしたタコの中で、リンはひとり膝を抱いた。

「冷たい・・・」

雨に濡れて、人工皮膚の表面温度が低下していた。人間なら『寒い』と感じるところだが、生憎アンドロイドは気温や温度の変化を『暑い』『寒い』とは認識しない。
リンは抱えた膝に頭を埋めた。
冷たいのは、嫌いだった。

以前のマスターに、『いらない』と言われた時の感覚と同じだから。

「これから、どこに行こう・・・」

タコにいくつかある、丸い穴から空を見上げた。完全防水だから、この雨の中歩いたとしても、リンにとっては何てことはない。しかしただでさえ知名度と普及度が比例していないボーカロイドが、雨の中傘もささずフラフラと出歩けば、道行く人の好奇を集めてしまうだろう。先ほどのコンビニに居た高校生が思い出されて、リンは煩わしくなる。思わずまた、膝に顔を伏せた。

「・・・帰りたいよ・・・」

何処へ、と言われても、分からない。ただ、帰りたい。帰りたい。
冷たいのは嫌だ。

『冷たい』と『寂しい』は、似ているのだ。

丸い穴から、暗い空が見える。太陽を隠して、冷たい冷たい雨が穴から降り込んでくる。

「・・・・・・寂しい。・・・・・・帰りたい・・・」

リンの声が、タコの中に鈍く響いた。
帰りたい。ここじゃないどこかへ行きたい。

どこに居ても、寂しいのに。


「じゃあ、帰ろうよ」


ひんやりとしたタコに、温かい声が入ってきた。

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