神様の珈琲

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目の前に広がる水色がまるで青空のようで、リンは一瞬思わず見惚れた。そして一拍置いてから、それがただの傘だと気付く。その下に居る、カイトにも。
「こんなに濡れちゃって。完全防水だからって、なにもこんなに濡れちゃうことないのに・・・」
右手に傘を持ち、左手に何か大きな袋を持っていた。カイトは水色の傘を閉じると、タコの中に入った。リンなら立っても平気だが、長身のカイトは膝をつかないときつい。雨が降り込んで下がびしょびしょでも、それでもカイトは何の迷いもなく膝をついてリンの傍に来た。
「汚れる」
リンは思わず、泥水の染み込んだカイトの膝を見た。カイトは一瞬キョトンとして、リンの視線を追うように自分の膝を見る。
「あ、ホントだ。でも、リンとおそろいだね」

ふんわり。

そういう表現が似合いそうな顔で、カイトが笑った。リンもこんな泥水が流れる中で座り込んでいたのだ。環から与えられていた紺色のホットパンツは、もうすでに汚れていた。

「後で一緒に、マスターに謝ろうね」

カイトの服も、リンの服も、もちろん鳥羽家の人々が洗濯をするのだ。カイトは手に持っていた袋から、タオルを取り出した。そしておもむろにリンの濡れた頭をタオルで包んで、わしゃわしゃと優しく拭き始めた。

「帰って、謝って、一応メンテナンスもしてもらおうか。雨と水道水って違うから」

あらかた頭を拭き終わると、また袋から新しいタオルを取り出して、今度は肩を包んだ。
そして濡れている服や腕を拭き始める。

「どうして」

カイトの手が止まる。

「どうして、ここに居るの?」

声が震えていた。まるで寒がっているかのように。

「・・・・私なんか、放っておけばいいじゃない」
「できないよ」

困ったようにカイトが眉をハの字にする。

「心配だから」
「私、喋らないし歌わないし・・・・家出するし。・・・役立たずだもの」

静かな淡々とした声に、カイトの手が思わずリンから離れた。

「リン」

宥めるような、諭すような声に、リンは頭を振った。

そうだ。自分など、誰も要らないのだ。

「マスターにいらないって言われたの。だから私は、役立たずなの」
「そうじゃないよ!」
「そうだもん。・・・私が役立たずだから、だから・・・」

肩を包んでいたタオルがはらりと落ちた。じわり、と茶色い染みをつくっていく。

「だから、新しいマスターも、私のこと、いらないの」
「リン・・・」

思わずカイトは顔を伏せた。リンの中に空いた、大きな暗い穴を見た気がした。
かける言葉が見つからない。どんな言葉をかけたとしても、全てがその穴の中に消えていってしまって、リンには届かないのだと悟った。

そう悟ると、もう、手を伸ばさずにはいられなかった。

膝を抱えるリンの肩を掴むと、カイトはその縮こまった体を抱きしめた。耳元で、驚いたように短く息を吸う音が聞こえたが、カイトは構わずぎゅうぎゅうと小さい体を抱きしめる。その力に合わせるように、カイトは目をぎゅっと瞑った。

どうか、と願う。

言葉は届かないかもしれない。だから、どうか、

世界でひとりきりなのだとは、思わないでいて欲しかった。
こんなにも近くに、強い力で傍にいる存在が、あることを知っていて欲しい。

そうして、ぎゅうっとリンを抱きしめてどれくらいが経ったかカイトには分からないが、しばらくしてからリンが小さく『離して』と呟いた。カイトははっとして、イヤイヤを言うようにかぶりを振る。

「分かったから」

どこか呆れたような、諦めたような苦笑混じりの声だった。カイトは思わず体を離して、リンの顔をまじまじと見た。しかしそこには、やはり無表情が貼り付いていた。

「分かった。ごめんなさい。・・・・帰る」

リンは無表情だったが、それでも真っ直ぐにカイトを見ていた。

「・・・・どこへ?」

カイトは一応、聞くことにした。そしてそう尋ねられたリンの口端が、ほんの少し、見間違いかもしれないくらいほんの少しだけ、上がった。

「あなたのお家に、帰るんでしょ?」

リンは立ち上がった。お尻が見事に泥まみれだったが、紺色だからあまり目立ってはいない。
カイトは笑って、リンに手を差し出した。



持ってきたタオルは全部袋に入れて、リンが持った。カイトは右手に傘を持ち、左手でリンの右手をしっかりと握っている。雨に濡れないようにリンはぴったりとカイトに寄り添っていて、傍から見ればとても仲の良い兄妹そのものだった。

「ねえ、リン」

柔らかなカイトの声は、雨に掻き消されがちで、リンは耳を澄ませた。

「前にマスターが言ってたんだ」

高い位置にある、自分と同じくらい白い顔を見上げる。

「幸せって、身に降り注ぐものじゃないんだって」

リンは黙ってカイトを見上げる。続きを聞く気でいてくれる、とカイトは感じてまた口を開く。

「僕はマスターに色んなことを教えてもらって、色んな歌を歌わせてもらって、毎日大変で、でも楽しい。・・・幸せだなあって思った。僕はマスターに幸せを与えてもらってばかりだって思ってたんだよ」
「・・・違ったの?」

カイトは立ち止まって、無表情のリンを見下ろした。往来の真ん中だったが、雨で人通りが少ないためか、立ち止まった二人を迷惑そうにする人もいなかった。

「・・・リン、幸せになりたいのなら、そう願い続けることが大切なんだよ。幸せになる努力をすることを、諦めては駄目なんだ。そうしていれば、ささやかな喜びは目の前にたくさんあるものだって」
「・・・・・」
「幸せは、降ってくるものじゃない。与えられるものじゃない。誰かを幸せにしてあげられるだなんて信じているなら、それは思い上がりだって、マスターは言ってた。誰かが幸せにしてくれるって信じているなら、それは怠惰だって」

一瞬、カイトの手を握る力が強くなった。

「幸せであろうとすれば、目の前にたくさんの喜びが見えるって。あとはそれを受け取るかが問題なんだよ」

カイトは無表情に見上げてくるリンの視線を、その青い二つの瞳で受け止める。

「幸せは、身に降り注いではこない。目の前にある楽しいことを、自分で掴まないと。マスターはね、僕に幸せを与えてくれているわけじゃないんだって。マスターや周囲の人たちが僕の目の前に差し出してくれたものを、僕がきちんと受け止めているだけなんだって」

強くなったリンの握力に応えるように、カイトもまたしっかりとリンの手を握る。

「僕はね、リン」

カイトは前を向いて、再び歩き始めた。リンも一歩遅れて歩き出す。

「新しいことを知ると、楽しい。歌が上手に歌えると、嬉しい」

謡うように、カイトは話す。傘に当たる雨音が、まるで伴奏のようだった。

「マスターの傍に居ると、幸せ。・・・・・・それに」

ちらりとリンを見て、暖かい笑みを浮かべた。


「新しい家族が増えるのは、喜ばしい」


リンが、傘と同じ青空色をした瞳を、めいいっぱい見開かせた。そして眩しいものを見るように目を細めると、俯いた。
その後は、カイトは何も言わなかった。リンも、ずっと俯いていた。

ただ、絶対に離すまいとするように、お互い強い力で手を握り合っていた。



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バレバレかもしれませんが、管理人はリンが大好きです。

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