短編集
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※収納の際に手直ししている場合があります。
行けども行けども、道なんかない。
僕は死ぬんだろうか。
この森に入ったのは、何日前だかもう覚えてはいない。最初から道なんかなかった。それでも、噂ではこの森の奥に伝説があると。
僕はどうしてもそこにたどり着かなければならない。
僕の村で、突然伝染病が流行りだしたのは2年前。いまだに特効薬はない。
分かっているのは、感染するとちょうど臍の上にハートのような痣ができる。そうなると、余命はそれからたった一ヶ月。
僕の村はもうほとんど死に絶えた。それでもまだ生きている人や感染を免れている人は、いる。他の村や街の人たちは、伝染を恐れてもう僕たちの村には入ってきてくれない。そう、僕たちにはもう自分で自分たちを救う術はないのに、他の村の人たちも助けてはくれないのだ。
だから、根拠のない伝説に縋るしかなかった。
昔からあるおとぎ話の様な伝説。
この国には昔、不思議な力でどんな病気も治してしまう一族がいたという。
しかし不老不死を求める権力者たちに追われ、もしくはその力を恐れる者たちには殺され、やがてその一族も絶えてしまった。
しかしそれでも、権力者の願いか、それともそんな一族を哀れんだ人たちの情か、今でもどこかの森の奥深くに彼らは隠れ住み、死の縁から人を甦らせる術を脈々と受け継いでいると、信じられている。
これしかない、と僕は思った。
本当にこれしかない、と。
ただの伝説でもいい。
このままであれば、いずれ僕の村は滅ぶ。
だったら伝説に縋ってみるのもいいだろう。
幸い、僕にはまだ痣はない。村で痣のない人間は、数える程度。それでも諦めて、村の人たちと死のうとしている。僕だって、いつ感染するか分からない。動ける内に、伝説を探したかった。
そして村を出て半年。たくさんの村や街で話を聞いて、やっと噂話をひとつ得た。
一族が住んでいるという噂の森。
深すぎて帰ってこない人が続出したので、今や誰も入らないと言われている。
その一方で、森に入った人たちは、例の一族に不老不死にしてもらって彼らと森の奥で暮らしているのではないかという声もある。
何はともあれ、止める近隣村の人たちの声を無視して、僕はこの森に入った。それが何日前かは覚えてないけれど、何日も経っていることは分かる。最初から道なんかなくて、背の高い草を掻き分けて歩いた。けれどもどこへ向かっているのか、方向も全然分からない。森の奥へと行けているのか、分からないのだ。
食料も尽きた。葉から落ちる露でここ2〜3日生きている。
木の根か何かに躓いて、僕は転んだ。背の高い草をなぎ倒すように、僕は地面に無様に倒れ伏した。今まで草で覆われていた視界が、急に開けた気がした。僕が倒れたのは、ちょうど草が途切れて小さな広場のようになっている場所だった。木もなくて、草は芝生のように短くて、そこには日の光が降り注いでいる。
今までの鬱蒼とした森が嘘のようだ。
ああ、きっと神様が、僕の死ぬ前にこの森で一番美しい場所を見せてやろう、という心配りをしてくれたんだ。
だって僕はもう、立てないよ。
ああせめて、僕が旅立ったことで、村の人たちに少しでも希望を与えられていたらいいんだけど。
本気で死を覚悟した時だった。
「―――――――、」
鳥のさえずりより、川のせせらぎより、儚くて美しい歌が聞こえた。
寄せては引く波のように。
頬を撫でていく風のように。
歌に包まれている。
僕は本気でそう思った。そう思うと同時に、もう上がらないと思った顔が上がった。腕が動いた。一瞬空腹も渇きも忘れてしまう。
僕は急かされるように小さな広場の中央を見た。
花畑とも呼べない、小さな花が群生しているだけの中に、一人の少女が座り込んで、花を愛しそうに摘んでいた、―――歌を歌いながら。
鮮やかなエメラルド色の長い髪。それは二つに括り上げられてなお、地面に広がるほど。肌は白く、降り注ぐ日の光で輝くようだ。そして僕に気が付いたのか、歌うのをやめて振り向いたその目は、今まで出会った人の誰もが持っていない色だった。
その目が、僕を見て不思議そうにくりくりと動いた。
「どうしたの?」
可憐な声をかけられて、僕はやっと惚けた気分から抜け出した。そして、例の一族に関する噂のことを聞こうとして、はっとする。
帰ってくる者もなく、誰もが入ることを恐れるこの森の中で、歌を歌いながら花を摘む少女。―――そんなの、普通の人間のはずがない。
僕は頭に浮かんだ仮説に、言葉が追いつかない
まさかまさかまさかまさかまさかまさか。
「どうして地面に寝ているの?」
本当に不思議そうにする少女。僕は何か言わなければ、と思ったのに、口から出たのは空気だけ。
ああ、どうやって声を出すんだったっけ?
ああでも、どちらにしろ喉が渇いて、張り付いてしまったように息苦しくて、声なんて出やしない。
いつまでも答えようとしない僕に焦れたのか、少女はすっと軽やかに立ち上がり、僕のもとまでやってきた。しゃがみこんで僕を見下ろせば、逆光で彼女は輝きに縁取られる。一瞬、例の一族のことなんか忘れて、彼女が僕のお迎えなんじゃないかとさえ思う。
心配したのか、彼女がそっと僕に手を伸ばした、その時。
「ダメだよ、ミク」
僕に触れる直前で、少女の手が止まる。少女が音のした方を振り返り、僕も釣られるようにそちらを見る。
首にマフラーを巻いた青年が、広場の奥からやってきていた。背が高く、長い足を活かして大股で歩み寄ってくる。そして僕に触れようとして止めた彼女の手を握り、引っ込めさせる。そして彼女同様に僕を見下ろした。
空より深く、海より淡い、青い髪と瞳の青年だった。彼女と同じく白い肌をしていて、普段なら笑顔の似合いそうな穏やかな面差しをしているが、僕を見下ろす彼の表情は憂いを帯びている。僕に同情しているようにも、哀願しているようにも見えた。
「ごめんなさい」
彼は謝った。少女はやはり、不思議そうに青年を見上げた。
「どうか、帰って下さい。これ以上、踏み込まないで下さい」
死にそうで、泣きたいのは僕なのに、彼の方が痛みを堪えているようだ。それくらい、彼の声には切なるものが込められていて、こっちが罪悪感を覚えてしまう。
しかし、彼の言葉で、ほぼ僕は確信した。
彼らは、歴史から消えてしまった伝説の一族なのだ。
僕は、無理やりにも喉をこじ開ける。
「ま・・・って・・・っ!」
去ろうとする二人に声をかける。初めての僕の声に、少女の方が好奇心をそそられたのか振り向いた。
「ミク」
諌めるような声がした。
ああ、『ミク』は彼女の名前なのか。
「たすけ・・・・て、くだ・・・さ、い」
喉が裂けそうな痛みを訴える。ぱりぱりという音が聞こえてきそうなほど、喉に潤いが足りない。
「無理です」
青年はきっぱりと即答し僕を切り捨てたようだが、その表情はさっきよりも憂いが深くなっている。
きっと彼は、僕の願いをおおよそ予測しているのだろう。
だから本当は助けたい。
けれど。
きっと今、彼の脳裏には昔迫害された先祖の話が巡っているはずだ。こんな森の奥深くに隔離されるように暮らさなければならなくなるほどの、仕打ち。
やっと静かな暮らしになったのに、それを踏み荒らされるのは嫌だろう。
助けたい。けれど、外とは関わりたくない。関わってはいけない。
だから、良心が痛む。
彼のお人好しそうな表情を見て、僕はそうあたりをつけた。
「たすけ・・・、おねがい、します・・・」
ああ、なんならここで死んでもいい。それで、彼の同情を引けるなら、そして僕の村まで引っ張り出せるなら、僕はここで死んでもいい。
だから―――――
不意に、目の前の二人が目を丸くし、口を『あ、』と言っているように開けた。
なんだ?
そう思うと同時に、後頭部、うなじのあたりに衝撃を感じた。
その拍子に瞼と意識が暗転するように、落ちた。