短編集

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ああ、僕は失敗したんだ。
胸を絶望が支配する。目を閉じると、死にゆく同胞の姿が浮かんで消える。

皆、死んでしまう。

渇いた唇に水滴が落ちてきて、初めて自分が涙を流していることに気付いた。ああ、ただでさえ脱水症状を起こしているのに、涙を流すなんてもったいない。
だいたい、泣いたのはいつぶりだろうか。
伝染病で村人が初めて死んだ時は泣いた。しかし徐々に村人の死は悲しみよりも恐怖に変わっていった。

一人死ぬごとに、次は自分じゃないか、自分の大切な誰かじゃないか。

大切な誰かだったら嫌だ。

自分だったらもっと嫌だ。

けれど、一人残されるのは一番恐ろしい。

その恐怖が、伝説に縋る僕を後押しした。
涙は唇を沿って顎へ伝い、そして僕を背負った青年の肩に落ちてシミになった。いや、肩というよりはマフラーに。青年の背中は見た目どおり細かったけれど、今の僕よりははるかに健康体に思えた。耳に入ってくる、茂みを掻き分ける音は遠くに感じられたけど、その音で彼の足取りが軽快で速いことは分かった。なのにあまり揺れを感じない。むしろこの揺れ具合は、むかし母親に負ぶわれていたのを思い出す。もういない母の背中は、もっと柔らかかったけれど。

「何か、歌いましょうか」

青年は僕を背負って足早に歩いているはずなのに、息一つ乱さずにそう言った。その声は、初めて会った時よりずいぶんと柔らかい。

「歌を聞くと、ずいぶん良いと思うんですけど」

青年の言葉に、僕は顔を上げた。

『歌』

それは、彼らにとても馴染んでいるもののようだ。

「やっぱり、歌で・・・」
「違いますよ」

僕の続く言葉を予想してか、青年はばっさりと切った。
「・・・・・」
続く言葉を切られて、僕は言うべきことを見失ってしまう。青年もわずかに黙って、そして意を決したように息を吸った。

「俺たちの歌には、病気を治す効果も不老不死にする効果もありません。・・・・ただ、」

声をひそめようとしたのか、小さくなった青年の声に僕は必死で耳を澄ませた。

「俺たちの歌が特殊なのは本当です。それに尾ひれがついて伝説に」
「その特殊さは・・・っ!げほっ」

勢い込んで、からからの喉が詰まって咳き込んだ。僕を心配するように青年の足が止まり、僕を振り返る。こんな、人の世界から隔絶された森の奥に住んでいるとは思えないくらい、振り返った青年の肌は白くて滑らかだった。

「あなたたちの歌には、何があるんですか?」

掠れた声を、それでも青年は正確に聞き取ったようだった。心配そうな表情を押し込めてまた前を向き、歩き出した。


「俺たちの歌は、聞いている人の時間を止めるんです」


青年の言うことが、僕は一瞬理解できなかった。それは別段、死にそうで意識が朦朧としているからじゃ、ない。

「時間が止まれば、体の不調も止まります。それが、俺たちがどんな病気も治すだとか、不老不死にできるだとか、そういう秘術を知っていると言われる所以です」

「時間を止める?」
僕の頬を、青年の髪がくすぐった。僕の言葉に頷いたのだ。

「時間が、つまり成長、もしくは老い、病気や怪我の進行も止まるんです」

だから不老不死だとか病気を治せるだとか噂が立つ。『けれど』と青年が言い添える。

「歌が止まれば、時間は再び進みます。また体は時間を刻むし病気も進行します。・・・・俺たちの歌は決して、病気を治せるわけじゃないんです」

そんな、と僕は思う。けれど、その思いばかりが心を占めて言葉が出ない。

「・・・昔は、」

ぽつりと、独り言のように青年が言う。

「治療の手伝いをしていたこともあったようです。誰かが大怪我をしたと聞けば、そこへ行って一日中歌を歌って怪我の進行を止めて、その間医者に治療をさせたり、病気を治したり」

僕の瞼に、怪我人の傍らで彼らのご先祖様が歌う姿が映る。

「けれど、その歌のことが徐々に広がって、もうそんなことできなくなりました。・・・いつの間にか、歌は不老不死の秘術になっていた。確かに歌を聞いていれば体の時間は止まりますが、あくまで聞いている間だけです。歌を聞くのを止めれば、また年を取る。けれど歌を一日中、それを毎日聞き続けるなんて、不可能でしょう?けれどそれを言ったところで、聞いてくれる人はいません」

その結果、救いを求める人々と、永遠を求める権力者たちに追い回される歴史が始まったんだ。
僕は思わず、彼の肩に額をうずめた。
今僕を襲っているのは、空腹でも渇きでも疲労でもない。まるで体にぽっかりと穴が開いてしまったかのような、虚脱感。

確かに、ただの伝説でもいいと思っていた。
けれど、本当だったらいいという期待はもちろんあったのだ。

そして伝説の一族はいた。けれど、やはり伝説はただの伝説でしかなかった。

悲しいのでも失望したのでもない。
ただ、虚しかった。

僕の旅は、何を得ることもなく終わったのだ。

本当は、彼を村へ引き摺っていきたかった。彼の喉が潰れるくらい、僕の村で歌って欲しかった。たとえ病気を治さないと分かっていても、病気の治療法が見つかるまで、僕の村で一日中毎日毎日歌って欲しかった。けれど、それは無理だと分かっている。

そんなこと人間には無理だし、彼はお人好しのようだけれど、彼の話を聞いている限り彼が歴史を許しているような気配はない。追われて追われて、やっと歴史の隅の存在となってたどり着いた安寧を手放すほど、きっと彼は愚かではない。

僕がどうにかしてでも村を救いたかったように、彼はあの小さな家族たちをどうにかして護ってゆきたいだろうから。

僕は静かに目を閉じる。
掻き分ける茂みの音に交じって、子守唄のような歌が聞こえてきた。
その瞬間、何か解放されたかのように、体も心も軽くなった。ぽっかりと体に開いた穴の中心で、小さな火が灯ったかのようだ。急に睡魔に襲われて、僕はうとうととする。

背負われて、子守唄を聞いて、穏やかな心持ちの中、眠る。

思い出した懐かしい光景は、もう二度と戻っては来ない。僕はたくさん失ったし、これからもたくさん失ってしまうだろう。

けれど僕はまどろみの中、夢を見た。

夢の中で、ミクと呼ばれた少女が、僕を背負っている青年が、同じ顔をした少年と少女が、見も知らぬ女性が、どこか知らない村で必死に歌っている。彼らの前には倒れた人々と、それを治療している医者たち。そしてやがて村人たちは全快し、彼らに感謝し、共に楽しそうに歌っている。
幸せそうな彼ら。

ああ、彼らもこの光景を失ってしまったのだ。
二度と戻らない日々を彼らはまた歌に込めて、彼ら以外誰もいない森で歌う。
もう彼らの歌を聞く人も、共に歌う人もいない。

伝説の一族が迫害されたのは、遠い遠い昔だ。この青年たちが人と共に歌った時代など、あるはずない。あったとしたらそれはもう、何百年も前の話。僕も彼らも生まれているはずがない。

けれど僕は、見た夢は本当だと、心のどこかで信じていた。




目が覚めると、青年が立ち止まっていた。彼の肩越しに前を見ると、茂みの間から遠くに村が見えた。

森の出口だった。

僕が起きたことに気付いて、青年は僕を降ろした。足腰が立たず僕は座り込んだが、青年はそれ以上手助けするつもりはないらしい。後は這ってでもあの村に自力で辿り着くしかない。

「・・・ありがとう」

ぽつりと僕は言った。言うならもう、今しかなかった。青年は一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに苦笑した。
「お礼を言われることは、何もしていませんよ」
「助けてくれた」
「貴方の望みは、叶えていない」
「いや、あなた達に望んだのが、きっとそもそも間違いだったんだ」
多くを失ってきた彼らに、また失えと言ったのだ。同じように失う痛みを知っているはずの僕が。
「一つ、聞いてもいい?」
僕が尋ねると、青年は首を傾げた。

「あなたたちは、『一族』ではないですよね?」

青年から表情が消えた。それは肯定しているようなものだと、彼は気付いているだろうか。
彼の子守唄を聞きながら見た夢。あれが本当だとすると、何百年も昔の話。そこに彼らがいた。
森に住んでいながら、焼けることも痛むこともしない、人形のような彼らの白い肌。

「―――追われて辛かったですよね。たくさんの醜い欲望に触れたはずなのに、・・・・人間を憎まないでいてくれて、ありがとう」

青年の表情が、痛みを堪えるように歪んだ。泣きそうな、それでいて笑っているような。

人間のような表情。

ああ、彼らが人と触れ合うのは、一体何年ぶりだったのだろう。

この世界は昔、とても高度な文明を持っていて、その時代にはアンドロイドと呼ばれる人を模した機械もいたと言われている。今の世界には、そんな文明のかけらもない。
なぜその文明が失われてしまったのかは、謎とされている。

それほど昔の話だ。けれど、事実とされている。

人の為に、人と生きる為に生み出されたはずのアンドロイドという存在。

けれど――――。


「さようなら」


青年と僕、どちらともなく言った。
失うことが恐ろしいのは、失ってしまったものが恋しいのは、人間だけではないのかもしれない。

僕は立てないかと、足に力を込めた。すると背後から、歌が流れてきた。

もう、ここには居ない人を恋しいと嘆く哀しい唄。

ふいに、体が軽くなり簡単に立ち上がれた。僕は思わず振り返りそうになって、だがそうはせずに重い足を引き摺るようにただひたすら走る。歌は遠くなっていったが、聞こえている限りは走れそうだった。
やがて森も抜け、歌が聞こえなくなると力が抜けて僕は再び転んだが、それでも止まらずに、近くの村人に発見されるまで這い続けた。そして彼らに運ばれるようになってようやく、森を振り返る。だがそこには、何日か前に見たものと同じ鬱蒼とした森が静かに構えているだけだった。


そして数日その村で養生して、僕は自分の村へ帰る。その村を出る直前、もう一度あの森の入り口に立ってみたけれど、あの美しい少女の声も、悲しい青年の声も、何も聞こえなかった。

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