短編集

□下
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男は、思わず女の腕を放した。空いた男の手が、迷うように空に浮いた。

女が言うには、手術をしなければ余命はそう長くない、ということだった。
だが手術費用が高くて払えなくて、ただただ蝋燭の炎のような残りの人生を過ごしていたのだと言う。

男は激昂したように、声を荒げた。

なぜ相談してくれなかったのだ、と。
手術費用が必要なら、力を貸したのに、と。

しかしそこで、いつだって大人しかった女が、同様に叫んだ。


だから、言わなかったのだ、と。


めったに声を張らないからか、女の声は裏返っていた。そんな女に反して、男は言葉を失った。男に迷惑をかけたくなかった、重荷になりたくなかったのだ、と女は泣いた。


次の日、男は貯金を全て引き落とした。それでも足りなくて、様々な金融会社を巡って借り入れをした。女が足りないと言っていた金額に達すると、複雑そうな顔をするMEIKOを見て苦笑し、女にあってくると言って出ていった。


しばらくして戻って来た男は、どこか安心したような面持ちでMEIKOを抱きしめた。
金を女に渡すと、女は一瞬で青褪めた顔をして、男と金を交互に見たという。日本語にならない言葉を繰り返したのち、男を馬鹿だと罵りながら涙した、と。それでも金を受け取ると、泣きながら『ありがとう』と何度も何度も零した、ということだった。

女は助かるのか。MEIKOは思わず座り込んだ。MEIKOを抱きしめていた男も一緒に座りこむ。
MEIKOが男の背中に腕を回すと、男はさらに強い力で抱き締め返した。
そして『ごめんな』という言葉と涙を一つ、MEIKOの肩に落としていった。

それを聞きながら目をつむると、風になびく枯葉色の女の髪と、それを見守る男が思い出された。やはり、寂しい情景だと思った。


数日して、男の住まいの前にワゴン車と引越しのトラックが停まった。男は、今よりも安い住まいに移ることになったのだ。そしてMEIKOは男に手を引かれ、ワゴン車の方へ連れられる。
MEIKOたちボーカロイドを生産している研究所名が、車体に印刷されていた。

男はMEIKOに数枚の紙を渡した。楽譜だった。
見たことのない音符の並び。見たことのない言葉の羅列。

新曲だった。新曲であり、最後の曲だ。

男は聞いてくれないというのに。
しかしMEIKOは、それを胸に抱え込んだ。ワゴン車から白衣を着た研究員たちが出てきて、両脇からMEIKOの腕を取る。

『ごめんな』

男はまた言った。MEIKOは首を横に振りながら楽譜を抱き締めて、ありがとう、と応えた。ワゴン車に乗り込むと、エンジンがかかりすぐに発車した。

ルームミラーに、いつまでもいつまでもワゴン車を見送る男が、小さくぽつんと映っていた。

それが、MEIKOが見たマスターであった男の最後だった。





「ありましたね、探し物」
鈴を転がしたような可憐な声に、MEIKOははっとする。目の前には、煌々と燃える暖炉の火が揺らめいていた。気付けば、手に数枚の紙を持っている。
内容を見なくても分かる。楽譜だ。結局、この曲を歌うことは叶わなかった。ワゴン車に乗って生まれ故郷でもある研究所本部へと送られたMEIKOは、すぐに廃棄処分の決定が下されて、機能停止措置が取られたからだ。


「魂とは何だと思いますか?」


MEIKOが振り向くと、いまだ暖炉の煉瓦に手を添えて立つ初音ミクがいた。
「ある人は命と言います。ある人は志と言います。ある人は精神と言います。ある人はその人自身と言います。結局どれが正解であろうとなかろうと、人間というものはそれを失っては生きていけない」
暖炉の炎が、ミクの顔半分を照らし、もう半分に影を作っていた。


「では、私たちボーカロイドに魂はあるのでしょうか」


炎が揺れて、ミクの顔の影も踊る。

「廃棄処分になれば、それで終わりなのでしょうか。それでは、人間と共にあった時間や記憶、その時に生まれた思いは、どこへ行くのでしょうか」

MEIKOは、踊るミクの顔半分の影を見つめた。
「その答えが、『ここ』なのね」
ミクは満足そうに微笑んだ。

「貴女の魂が見つかったようで、良かった」

ミクの視線の先に、メイコの手の中にある楽譜があった。この部屋に入ってきた時は確かに、持っていなかったはずの楽譜。中身はやはり、あの最後の曲だった。

「さあ、きかせてください」

神に祈る乙女のように、両手を組んだミクに、MEIKOは笑って応えた。


本当は誰よりも、あの人に聞いてほしかった。
MEIKOは歌いながら、そう思った。いつだって、そう思っていたのだ。だから、廃棄処分の決定が降りて機能停止されるまで歌わなかったのかもしれない。本当に歌う気があったなら、あのワゴン車の中でだって歌えたのだ。研究員たちも、これから廃棄になるであろうボーカロイドが最後に残された時間で歌っていようと、誰も文句など言わなかっただろう。
それでもあの人がくれた歌を歌わなかったのは、聞いてほしい人がもういないからだ。

けれど、そうしたらこの楽譜は、あの人がこの音符と言葉の並びに込めた想いは、どうなるのか。

歌いたい。
そう思った時、この部屋の扉が目の前にあらわれたのだった。


MEIKOは最後の言葉を音に乗せると、ゆっくりと口を閉じた。しばらくして、小さいこの部屋に、ミクの拍手が響いた。

「ねえ」

ミクの拍手が終わるのを待って、MEIKOが語りかける。
「どうして彼女とマスターがいる光景を寂しいと思ったのか、今わかったの」
目を閉じると、その時の情景が鮮やかに浮かび上がる。なびく枯葉色の髪。彼の優しい目。
「わたしが、そこに入れないからだわ」
優しく穏やかな二人だけの世界に、自分だけがいない。人間とは違うと、思い知らされる瞬間だった。
ミクは何も言わなかった。始終浮かべていた微笑みさえ、今は浮かべていない。


「でもね、今は朝が好きよ」


MEIKOは楽譜を抱きしめて。

「あの二人が空の下、今日も並んで生きている。そんな一日が始まるのなら、・・・たとえそこに、私がいなくても」

それだけで、ほら、自然と笑えるから。それが、愛するということだろうか。

MEIKOは炎に照らされながら微笑むと、静かに消えていった。
楽譜が乾いた音を立てて、MEIKOの立っていた場所に落ちる。ミクは一歩踏み出して、紙の束を拾い上げた。

そして一瞥したのち、それを暖炉に放り込んだ。

ぱちっという音とともに楽譜が黒く染まり、一瞬で灰に変わり消えていった。その瞬間、炎が赤みを増したのを見て、ミクは満足そうに微笑んだ。

そして踵を返すと、落ち着いた色味で刺繍が施された柔らかいソファに身を沈めた。長いツインテールが、ソファの上で波打つ。


ミクが魂とは何だろう、と考えた時、部屋の扉のノブがかちゃりと回った。

ミクはとりあえず考えるのを止めて、口の端を吊り上げた。


fin

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