ビヨンド・ザ・サンセット
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「ただいま戻りました」
レンは王女の部屋の扉を開けながら頭を下げた。王女は相変わらずテラスの白いテーブルについて外の王宮前広場を眺めている。
「おかえりなさい」
広場を見つめたまま、王女が応えた。今広場では、緑の国の殲滅を果たした自国の兵士たちが凱旋を行っているところのはずだ。凱旋と言っても、祝福するはずの民たちも、当の兵士たちも死んだような目をしているのだが。
「王女の命、果たしてきました」
くるりと、初めて王女が振り向いた。その顔は、無邪気な少女そのものだった。
「本当?」
「ええ」
レンはうっすらと微笑んだ。
「ありがとう、レン!」
その声が合図だったかのように、教会の鐘が鳴り響いた。
まるで、自国の勝利を祝福するかのようにも聞こえたし、消えた命を悼む鎮魂歌のようにも聞こえた。王女は鐘の音にしばらく耳を澄ませてから、レンを見る。
「あら、おやつの時間だわ」
レンは一つ苦笑をしてから、給仕服の袖をまくった。
「今日のおやつはなーに?」
歌いだしそうな楽しげな声で王女が尋ねた。
「そうですね・・・、ブリオッシュにしましょう」
王女は花が咲いたように、無邪気に笑った。それを見て、レンは思った。
これで良かったのだ。
―――自分は、これで良い。
メイコが馬から降りると、領民たちが集まってきた。
「領主様!よくお戻りで!」
「ご無事でしたか!本当によかった・・・っ!」
メイコは、本当に嬉しそうにする領民に俯いたまま、顔を合わせられない。
「領主様?どうしたんですか?」
「まさか、どこかお怪我を!?」
最後の一言で、集まってきた領民の間にどよめきが広がる。メイコは慌てて顔を上げた。
「いや、疲れただけ!私はいたって健康だから、心配は要らない」
そこまで言うと、メイコは俯く。
「本当に、ただ疲れただけだから・・・」
困惑する領民と、俯くメイコの間に一人の男が割って入った。メイコの副官だった。
「お屋敷に戻りましょう、メイコ様」
「・・・そうね。皆も、戦の間大変だったでしょう?心配かけてごめんね」
人込みから、『いいえ、そんな』と言う声が零れた。
メイコは何かを堪えるような表情を一瞬見せたかと思うと、副官に連れられるように自分の屋敷へと戻った。
部屋の燭台に蝋燭一本だけ灯して、薄暗い中メイコは窓辺に立った。窓の外には、仕事から帰る彼女の領民たちが見える。副官は斜め後ろから見えるメイコのその横顔を見ていた。
まるで警鐘のように鳴り響く自分の心臓を胸の上から押さえる。
メイコの横顔が、まるで死地に赴く将のように静かで、泰然としている。
次にメイコが口を開く時の言葉がどんなものなのか、想像できない。
「・・・・・」
メイコが口を開いた。けれど、何の言葉も出てこない。開いたままの潤んだ唇を、副官は見つめた。
「・・・・子供を斬ったわ」
突然出てきた音に、副官の肩が跳ねた。メイコの声は、部屋の温度を下げた。
「・・・・細い腕の女性も斬ったわ」
「メイコ様」
「・・・・腰の曲がった老人も、斬った」
「メイコ様!」
副官は目を伏せて首を振る。
「そうしなければ、我らが領地の子供が、女が、老人が、斬られました」
「そうね」
メイコは目を窓の外に向けたまま、あっさりと言う。
「けれど、彼らと私の領民、何が違うって言うの?彼らを殺した私に、領民たちに合わせる顔があると?」
「我ら領民たちを、メイコ様は守ってくださったのです。少なくとも、我らが前では胸をお張りください」
その時、メイコの口元が歪んだ。副官を嘲笑しているようにも、自嘲しているようにも見えた。
「できるわけ、ないでしょう」
副官は項垂れる。
「立派なことをしてきたわけじゃないのよ」
窓枠にかけたメイコの指先が白んでいく。力強く握り締めて、震えている。
「悔しいのよ、私は。私の部下だって死んだ者がいる。善良な緑の民を殺し、自分の部下さえ、守れない」
メイコのせいではない。副官はそう思っているが、メイコ自身が決してその言葉を受け入れることはないと分かって、口にするのはやめた。
それでも、メイコに自分を責めるようなことは言ってほしくなかった。
こうする以外に、メイコは自分の領民を守る術を持っていなかったのだ。
メイコのしたことは確かに善行ではないが、それでもメイコの出来うる全ての中で最善のことだった。
そうだ、それ以外に何を選べたと言うのだ。
それ以外に、と副官は考えて、ぞくりと背中が粟立つのを感じた。
まさか、と思いメイコを見やる。
いつの間にか、メイコがまっすぐこちらを見ていた。
そして腰に佩いた剣に手をかけている。
「メイコ様・・・」
思わず上擦る声。
メイコが剣を抜いて、光のような速さでそれを閃かせた。
ふっ、という微かな音と共に蝋燭の火が消える。
部屋に暗闇が降りた。
「メイコ様・・・」
副官は何か言わなければ、と再びその名を呼んだが、もう何も言わせまいとするかのように、夕月の逆光を受けながらメイコははっきりと言い放った。
「もう、こんな虚しいばかりの死は、いらない」
暗いはずなのに、副官には爛々と燃えるメイコの瞳がはっきりと見えた。
「私は、悪の娘を討つ!」
白い髪が混じる執事の黒い燕尾が、歩くたびに揺れた。
「カイト様!」
主を追う男の燕尾は、動きを止めない。
「お願いですから、もう少しお休み下さい」
前を歩いていた青い髪の主は、やっと足を止めて振り向いた。両腕に目を通さなければならない書類や、調べ事の資料を抱えたカイトのその顔は、疲れがはっきりと浮かんでいたが、困ったように笑っていた。
「ごめん、今仕事をやめたくないんだ」
彼の執事は悲しそうに、髪と同じく白の混じる眉を下げる。
「・・・このところ働き詰めではないですか。もう少しお休みを取って頂かないと、カイト様のお体が持ちません」
「・・・他のことを、考えたくないんだよ、じい。今、仕事をやめて他のことを考える余裕を持ってしまうと、それに囚われてしまって今度は仕事に戻れなくなりそうだ」
「・・・・それでよろしいではありませんか」
返ってきた言葉は、カイトにとって意外すぎた。思わず目を瞠る。
「じい・・・」
「悲しくない振りなどお止め下さい。想いを閉じ込めれば、いつか歪み、崩れてしまいますぞ」
それでもカイトは、困ったように微笑んだまま。それが執事には、悲しい。
当主であるカイトが、想いを通じ合わせていた緑の娘の訃報を受けたのは、一ヶ月前のことだった。悪の国の侵攻後、港で水死体となって発見された。しかしながら、溺死した割にはきれいな遺体だったと言われている。
溺れてすぐに、『誰か』が引き揚げたのだろうと聞いた。
その知らせを受けたカイトは丸一日、自室から出て来なかった。
心配した彼の執事がどれだけ呼んでも、扉を叩いても出てこない。合鍵で扉を開けようとしたなら、中からひどく掠れた声に『やめてくれ』と懇願するように言われてしまって、もうどうしようもなかった。
一夜明けて次の日の朝、部屋から出てきて笑顔を見せてくれたと思えばもう、寝る間も休む暇も惜しんで仕事に没頭するようになっていた。
まるで何かを忘れようとするように。
または、何かから逃げるように。
仕事をすることで本当に、カイトが娘の死を忘れてしまえるのなら、彼の執事だってここまで必死に追いすがったりはしない。
けれども、悲しい時に悲しまないと、いつまでだって消えないものだ。
執事はひとつ、深い溜め息を吐いた。白い口ひげが揺れる。本当は、知らせるつもりはなかったのに、と思う。けれど主には、自分の中の悲しみに決着をつける必要がある。
「カイト様」
執事は真っ直ぐ顔を上げて、主を見据えた。仕事に戻りたそうにしていたカイトも、様子の変わった執事に思わず向き直る。
「かの悪の国に反乱分子が立ち上がり、日増しに勢力を伸ばしているそうです」
目の色が変わった主に、執事はつかつかと歩み寄った。
「革命軍の頭は、メイコという名の、なんと女性剣士だそうです。元々、緑の国と国境を構える町の領主」
「メイコ・・・」
執事は、カイトの持つ仕事の書類や資料を全て、その腕から取りあげた。そして深く頭を下げる。
「どうぞ行ってらっしゃいませ、御当主様。御自分の悲しみの終着点を、見届けてきてください」
しばらく黙っていたカイトは、唇を引き結ぶと踵を返した。
「しばらく家を頼む」
地に足が着いた、しっかりした声に、頭を下げたまま執事は微笑む。
「かしこまりました」
青い青い空の下、カイトはやっと駆け出した。