ビヨンド・ザ・サンセット
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一瞬、嵐のような怒声も恨み言も、全ての音が掻き消えた気がした。いや、本当に皆あの瞬間、黙ってしまったのかもしれない。ただただ、教会の鐘の音だけが鳴り響いていて、それが頭の奥から今でも消えない。人々の隙間から遠く、小さな顔が見えていた。断頭台に固定されて、本当に顔しか見えない。
そして無邪気ににっこりと笑ったその小さな唇から、言葉が零れた。
『あら、おやつの時間だわ』
そして椿の花のように、ぼとりと落ちたその首を見て、ぼんやりと私は分かった。
あの日あの瞬間、『私』は死んだのだ、と。
カイトが荷物を船から降ろしていると、その港で働く地元民がふいに話し掛けてきた。最初は、珍しい他国の貴族であるカイトを敬遠していた地元民たちも、子供たちに様々な物語を歌って聞かせる姿に心を許していた。
「貴族さま、西の港には行かれましたか?」
小さな、他国との交易もあまりない国の、少し訛った発音でそう尋ねられて、カイトはきょとんとしながらも首を振った。
「どうして?」
西の港は町から遠い上にとりわけ小さくて、船が入らないから今はもう使われていないと聞いていた。そうカイトが言えば、地元民はにっこりと笑った。
「いいえ。お仕事のお話じゃないんですよ」
カイトは抱えた荷物を一旦降ろすと、それに腰を降ろした。地元民もそれに倣う。
「小さくて、世界から忘れ去られたようなこの国の、唯一そこそこ知られている言い伝えです」
初老の男だったが、どこかいたずらっ子のような笑顔を浮かべる。
「言い伝え?」
「ええ」
笑顔で、男は頷く。
「願いを書いた羊皮紙を、小瓶に入れて海に流せばいつの日か、願いは叶う」
カイトは目を丸くした。それは自分がいろいろな国を廻り、伝え聞いて、それをまたいろいろな国で歌ってきた歌。
「ここが・・・?」
思わず呟いたカイトに、男は嬉しそうに笑う。
「おや、この言い伝えを知ってくれていましたか。何もない国ですが、この言い伝えだけはひっそりと他国まで伝わって、時々、西の港を訪れる人がいるんですよ」
カイトは振り返って、自分の瞳と同じ色をした海を見渡した。
「・・・海は、遠く離れた場所と場所を繋ぐもの。海に願えば確かに、いつか、どこかの遠い場所にも届くような気がする」
海を見つめたままのカイトの横顔を、男は不思議そうに見ていた。それに気付いたカイトは苦笑しながら立ち上がり、『後で行ってみます』と話を切り上げ仕事に戻った。
太陽が海に沈もうとしている。海が真っ赤に染まって、まるで大きな血溜まりを見ている気がした。少女は港に一人、ぽつんと立ち尽くしてその海を眺めていた。手には小瓶が握られている。
伸びた黄色い髪が風に煽られ頬を撫でるのを、手で一度だけ耳に掛けなおす。そして自分の手の中にある小瓶と、赤い赤い海を交互に見た。そして唇をきつく引き結び、どこか諦めたように踵を返した。
「流さないの?」
突然背後から声を掛けられて、少女は驚いて振り返り、そして声の主を見てさらに目を見開いた。
「・・・カイト・・・さん?」
リンは胸元で小瓶を握り締めたまま、凍りついたような声でその名前を呼んだ。
「その瓶の中身、君の願いが書いてあるんじゃないの?」
小瓶の、その中にある折りたたまれた小さい紙切れを、カイトは指差した。
「え、あ、・・・はい」
「流さないの?」
また同じ言葉が返ってくる。
「・・・願う資格が、私にあるのかどうか・・・」
リンが気まずそうに視線を落とす。
「・・・・・・君は、いろんなことを知ったんだね」
リンが顔を上げた。
「・・・はい」
「レンの考えていたことも、今は分かる?」
その名前を出した瞬間、リンの体が震えた。胸元で小瓶を握る指先が、白さを増した。
「・・・はい」
震える声で頷いた。
「私が民から何を奪って、自分が何を失ったのか、・・・たくさん知りました」
「・・・・辛かった?」
「辛くないと、意味がないから。・・・・いろいろな国を巡りました。それこそ、カイトさんみたいに。いろいろな人に会いました。いろいろな話も聞きました。最初は分からなかったことも、だんだん分かるようになりました」
空色をした瞳に、雲のように涙が浮かんだ。
「レン、私のために、色んなことをしてくれた。・・・・させてしまった。命さえ、使ってくれた」
ボロボロと、堰を切ったように涙が零れ落ちる。
「けれど、もういない。生きている私を見てくれない。私はレンに、何も返せない!」
城から逃げて、始めに食べ物に困った。店のものを勝手に食べて、そこの店主にこっぴどく怒られたうえに初めて人に殴られた。痛くて、怖くて。この自分が物を食べる代償に、金が要るとは知らなかった。その金を手に入れるために、労働があることも知らなかった。そして国中が王女への、自分への恨みと憎しみで溢れていて、いつばれてまた痛い思いをさせられるのかと怖くて仕方がなくて、国を逃げた。けれど違う国でも悪の国の話は付いて来た。食べるものも着るものもなくて、寝るところもない。どこへ行けばいいのかも分からない。けれどリンを助けてくれるものはいない。どこの国もかつて、リンに搾取され、自分たちのことだけで精一杯だからだ。
そんな時に差し伸べられた手は、どれだけ暖かかったか。
とある拾われた先で、リンは働いた。その代償で食べ物と寝床を得た。それが繰り返される日々。楽な生活じゃない。思い通りにならないことばかり。なぜ自分が、と腹も立ったし、嫌だった。
けれど、それが当たり前なのだと、やっと分かった。
簡単に手に入るものなど、何もないということ。だからそれを誰かに奪われれば、当然憎い。失えば、辛い。
『いつか、王女にも、分かります』
『愚かな民の言い分が?』
『無力な民の願いが、です』
リンがこうなることを、レンは分かっていたのか。いや、リンがそんな生活をするように仕向けたのはレンだ。レンは、リンが学ぶ機会を、その命と引き換えに与えてくれたのだ。
毎日働いても、決して裕福にはなれなくて。それでも働く合間に仲間と話をしたり、休みに日に出かけたり。
楽しい、と思った。生きている、と思った。
それが、自分が民から奪い続けていたものだと、分かった。
あんなにもぼろぼろの服を引き摺ってでも、自分に対して反乱を起こした理由を。
そうしてやっと、統治者に恵まれない国は、哀れだと思った。
そうして初めて、自分を戴いていたあの国を、住まう国民たちを、哀れだと思った。
隣国に、緑の民たちに、申し訳ないと思った。
レンの、深い思慮にも気付いた。
全て遅すぎて、全てがリンを置いていってしまったけれど。
「―――願いは」
謡うような声に、リンは顔を上げた。先程のリンと同じように、赤い赤い海を見渡すカイトの横顔があった。
「願いは湧くもの。資格なんて関係ない。貧しい者にも富める者にも、平等の想いだ」
顔は海を向いたまま、カイトは目だけでちらりとリンが握り締めた小瓶を見た。そしてそっと右手をリンに差し出した。そのリンとは違う広い手の平には、リンと同じような小瓶が乗っていた。
「誰にだって、波に託すしかない願いは、ある」
リンははっとしたように、その瓶を見つめた。
「・・・ごめん、なさい」
震える声で言った。脳裏の浮かんだのは、遠い昔に見た、幸せそうなカイトと緑の娘。
「ごめんなさい・・・っ!」
幼稚で、だからこそ残酷なことをした。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・っ!」
「―――――後悔してる?」
カイトがいつの間にか、こちらを向いていた。リンと同じように、小瓶を胸元で握り締めていた。
「俺も、ずっと後悔していた。あの帰国の日、ミクさんを青の国に連れ帰ればよかったって。どうしてもっと何か、気付けなかったんだろう、って」
『物語では、』とカイトは笑う。
「物語の主人公なら虫の知らせみたいなのを察知できるのに、俺はミクさんが海に身を投げた時、自室で呑気に寝ていたんだ」
護れなかった自分が、憎かった。許せなかった。なのにそんな感情からも逃げた。
「けれどミクさんは、そんな俺を許すと言ってくれた。ミクさんを殺そうとしたレンのことも、レンにそうさせたリン、君のことも許すって」
「え・・・」
カイトの腕が伸びてきて、リンは体を強張らせた。殴られるだろうか、と思った時、頭の上に柔らかな重みを感じた。
「あの日、『悪の娘』は死んだ」
カイトの穏やかな顔を、夕日が照らす。
「たくさんの恨みと罪を連れて、死んだんだよ」
伴奏のように、波の音が打ち寄せる。風が二人の間をゆっくりと通っていく。
「あの日、なにもかも終わった。そしてなにもかもが、始まったんだよ。そして、多くの月日が流れた」
前を、向こう。そう言ってカイトは、リンを促して一緒に赤い赤い海を見る。
もうすぐ夜が来る。
「リン。レンは確かに、君に後悔して欲しかったんだ。けれど後悔しながら生きていって欲しかったわけじゃないと、思うよ」
後悔は、誰にでもあるとカイトは思う。ああしていれば良かった、なんであんなことをしたのか。自分もしたし、メイコもした。レンもリンも。バラバラに生きているようで、人間は誰しも結局、変わらない。
「『あんなこと、するんじゃなかった。これからは、もうしないようにしよう。』レンは、君にそう思ってほしかったんだ。君は国も民も大切なはずの人も、大事に出来なかった。・・・・レンは、君に与えた人生の中で、今度こそそういうものを大切にして生きていって欲しかったんだ。そのために、彼は君の罪を背負った」
いつか、王女にも、分かります。
自分と同じ顔をした召使い。なんでも言うことをきいてくれたし、いつでも傍にいてくれた。それが、とても尊いことだと、知らなかった。
レンは多くを語らなかったが、いなくなった今でも、多くを教えてくれる。
もう、リンには、願いを波に託すしかできないけれど―――
リンは腕をゆっくりと持ち上げて、振りかぶる。風を割く音を立てて、握り締めた小瓶を、投げた。風が吹き抜ける音の隙間に、ポチャン、という軽い音がした。
胸につっかえたものが、落ちる音。
「もしも・・・」
言葉と一緒に、涙が滑り落ちた。カイトがこちらを振り向いたのが分かったけれど、リンは波間に揺れる瓶だけを見つめた。
「もしも生まれ変われるならば」
―――その時はまた、遊んでね。
レンの声が、さざ波に混じって聞こえた気がした。
レンがそう口にしたあの瞬間、あの一瞬だけが、唯一自分たちは姉弟だったのではないだろうか。
「大切な人たちと、今度はもう、ずっと傍にいる。大切にする。―――だから、どうか逢わせて」
滲んだ視界。その端っこで、カイトが腕を振り上げるのが見えた。続く風を切る音と、リンの時より遠くでしたポチャンという音。
「君の王宮で、中庭を見たよ」
リンはカイトを見上げた。王女ではないと気付かずレンを捕らえた後、一人になりたくて中庭まで歩いた。
中庭は、美しい花で溢れていた。
庭園、と言うような豪華なものではない。整備し尽くされているわけでもなかった。
ただ、大きな花も小さな花も、競うように咲き乱れていた。
一目でカイトは分かった。この庭の持ち主は、とても花が好きなのだと。
ミクの花屋と、とても似ている。
「立場や出会い方が違っていたら、きっと君とミクさんは、とても親しくなれただろうに、って思ったよ。―――それこそ仲の良い姉妹みたいに」
ミク姉、と呼んで無邪気にじゃれ付く自分を、リンは容易く想像できた。自分が下した決断のせいで、そんな世界はもう自分には訪れないけれど。
「生まれ変わったら、そうなってたりして」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて、カイトが言って、リンは目を丸くする。
「俺は生まれ変わっても、逢いたいな、ミクさんに。それにレンも。メイコや君にも」
最後に自分がいて、リンはポカンとした。
「私にも?」
「うん。罪も悲しみも全部終わって、今とは全然違う存在になって、全然違う出会い方をして。――――例えば、俺がお兄さんで、レンと君が、可愛い双子」
目の前に、どこか遠い世界が広がった気がした。海も夕日も一瞬見えなくなる。
新聞で見た反乱軍の女剣士がソファに座って笑い、その傍でカイトが優しい笑みを浮かべて立っている。長い緑の髪を揺らしたミクも腕を広げて笑っていた。誰も彼も、見知らぬ服装をしている。
そして、ミクと一緒に笑うリンの隣には―――。
「・・・いいなあ」
呟くと、一瞬にして幻想全てが消えてしまった。海に視線を戻せば、もう小瓶は見えない。他国と国交を持ちにくいほどに、この国は海の果てにある。あの小瓶がどこかに辿り着くのは、いつのことになるのだろうか。
どこか遠い場所に辿り着く頃には、あの幻想は現実になるのだろうか。
それとも辿り着いた先に、あの幻想があるのだろうか。
遠い遠い、あの夕陽の向こう側に。
ふと、リンは故郷を思い出す。
自分が悪逆の限りを尽くしたために、いつしか『悪の国』と呼ばれるようになった彼の国は、本来は王族の髪の色から取ってこう呼ばれていた。
―――黄昏の国。
吹き抜ける風に、リンはもう一度髪を耳に掛けなおした。
カイトと一緒に海を眺めて、うっすらと微笑んだ。
願わくば、あの小瓶の辿り着く場所が、あんまり遠くでなければいい。
END