レインボーデイズ
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泣いている声がする。小さな子供の泣いている声が。
暗闇にポツンと、浮かび上がるように小さな子供が泣いていた。俺はその場から動けずに、ただただ子供が泣いているのを遠目に見ていた。
子供は激しく泣いていた。小さな体が、崩れそうなほど声を上げている。
それは最早、泣き声と言うよりは慟哭に近かった。
こんな小さな子供のどこに、これほどの悲哀を出す声があるのだろうかと思うほど、彼の嘆きは深い。
目を擦るだけではもう足りないのか、彼は小さな自分の手で顔を覆っている。その両手の隙間から、『ごめんなさい』という言葉が何度も零れ落ちた。
そして俺はやっと気付いた。あの子供は昔の自分自身だと。
ふいに、子供のそばに一つの人影が現れた。背の高いその人は、子供に合わせるように膝を折った。そして慈しむように、泣く子供の頭を撫でた。ゆっくり、優しく。
「大丈夫ですよ」
『ごめんなさい』という言葉が零れ落ちるたび、それを補うように男は『大丈夫』と繰り返した。
「貴方がそんなに謝ることは、ないんですよ」
俺はひとつ瞬きをした。一度目を瞑ると一瞬視界から二人が消え、再び開けると目の前に小さな足がぼやけて見えて、俺はすぐにいつの間にか自分が泣いている子供に戻っていることに気付いた。
胸に、あの頃の悲哀が広がっていく。涙が、壊れた蛇口のように止まらない。横にKAITOの気配を感じたが、胸の痛みがひどくてそちらに意識を向けられない。
「ひどい、ことを、したっ」
しゃくり上げながら俺は言った。もう、独り言なのかKAITOに向かって言っているのか分からない。
「とりかえしが、つかないっ」
暗闇に、子供の俺の声が虚しく響く。
「きっと、何百回、何千回あやまっても、ゆるしてもらえない!!!」
それは、子供にとっては絶望的な数。それでも、許してもらえない気がした。喉が裂けんばかりに、泣いた。罪悪感が、この小さい肩にのしかかる。
「―――たとえ」
ぽつりと響くKAITOの声。―――泣けるくらい、優しい声だ。
「貴方のしたことが、どんなに酷いことであっても」
ゆっくりと俺の頭を撫でる。
「それで、世界中の誰一人として貴方のことを許さなくても」
KAITOは俺よりずっと大きい。子供の俺にとっては、いつもよりもっともっと大きい。その大きく広い腕で、俺を包むように抱きしめた。
「俺は貴方を許します、マスター」
俺を包む腕が温かい。この真っ暗な中で、唯一の熱がただただ優しい。
「世界の誰が許さなくても、唯一許す俺が、ずっと傍にいます、マスター」
そうして頭上から、『だから、もうどうか謝らないで、泣かないで下さい』と言う声が降ってきた。
俺は、『ずっと傍にいる』と言うKAITOの言葉を反芻して、また盛大に涙が溢れた。罪悪感が胸を支配して、結局、また出た言葉は同じだった。
「ごめん、KAITO・・・」
ゆっくりと目を開ける。カーテンから差し込む朝日に目を細めつつ、確信を持ってベッドの脇に視線を移すと、予測どおりKAITOがいた。夢に出ていた時点で、傍にいる気がしていた。
気が付くと、俺の額にあたりにKAITOの手が乗っていた。夢の中ではあまり実感していなかった感触が、今リアルになる。今まで、これほどまでにKAITOにあやされたことがあっただろうか。
「おはようございます、マスター」
何でもないように、KAITOは言った。今思えばこの間の朝、俺の手を握っていたのも、今と同じような理由なのだろう。俺がうなされて、けれどもその理由を俺に聞くことが出来なくて、だからあの時KAITOは誤魔化した。
自分のためではなく、おそらく俺のために。
あの時KAITOは、俺の言うことを護るよりも、俺の心を護ることを選んだのだ。
「ご・・・」
思わず『ごめん』と謝りそうになって、夢の中のKAITOが言った『謝らないで』という言葉を思い出す。
「マスター?」
「いや・・・、何でもない」
俺が首を振ると、KAITOは苦笑した。そしてゆっくり立ち上がる。
「キッチンの準備、してきますね」
去ろうとする背中を、俺は呼び止めた。
「訊かないのか?」
KAITOが立ち止まる。ゆっくり振り向いた目は、雲ひとつない空の様。
「マスター、俺には心がありません」
その表情は悲しそうで、言ったセリフに合っていない気がした。
「人間でいう心は、俺にとってはAIで、最初にプログラムされていたこと以外は、人間のように毎日の中で学んでAIに刻み付けていくしかないんです」
そう。だからKAITOは毎日のようにテレビを観て、本を読んで、新聞も読む。
「俺はまだ生まれたばかりの、それこそマスターよりずっとずっと子供です」
眉尻を下げて、KAITOはヘニャっと情けない笑みを浮かべる。
「そんな俺が、人の心の中に入っても、踏み荒らすだけです」
俺ははっとする。そんな俺に気付いたのか気付いてないのか、KAITOは続ける。
「俺はまだ、歩き方を知らないんです。だからどうか、マスター」
カーテンから差し込む朝日だけが唯一の明かりの薄暗い部屋なのに、KAITOの笑顔は眩しいくらいだった。
「マスターが、入っていいよと言ってくださるまで、俺は待ちます」
そう言うと、俺が何か言うのを待たずに出て行った。俺はKAITOが出て行ったドアを呆然と見つめた。
俺は、KAITOにいったい何を求めていたのだろうか?
KAITOが『どうしたんですか!?』と俺ににじり寄ってきて、それに押されるように自分の心の内を吐露することを、望んでいたのだろうか。
きっとそれだったら、楽だった。
それでどんなに俺が無様でも、傷付いても、きっと心のどこかでKAITOに押されたから、と自分に言い訳できたんだから。けれどそれは、何の解決にもならない。
俺とKAITOの間に溝を作るだけだ。
だから、KAITOは待つと言ってくれた。
俺に、選択する権利を渡してくれたのだ。
「ご・・・」
言いかけて、ひとり首を振った。その拍子に涙が散ったが、気にしてはいられなかった。
もう本人のいない部屋で俺は一人、心から呟いた。
「ありがとう・・・、KAITO」