レインボーデイズ
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「何よりもまず」
KAITOを連れ出した俺は、そう切り出して大きく息を吸った。
「ありがとな、KAITO」
KAITOは突然のことに目を瞬かせている。
「お前、俺がうなされている時に、『俺だけはマスターを許します』って言ってくれただろう?」
するとKAITOは驚いたように目も口も丸くする。
「聞こえていたんですか?」
「夢に、お前が出てきたよ」
言えば、更に目が丸くなった。きっと、うなされている俺の頭を撫でながら、KAITOはそう言ってくれていたのだ。それがああいう形の夢になったのだろう。
「お前のその言葉を素直に丸々受け入れることは出来なかったけど、その一言のおかげでやっと、俺は許されるのかもしれないって思えるようになったんだ」
歩きながら俺は話す。楽しそうに話す高校生のカップルとすれ違った。
「少なくとも、母さんに会いに行こうと思えるようになった」
俺の言いたいことが分からないのだろう、KAITOは少し戸惑った後、遠慮がちに訊いてきた。
「マスターがずっと謝っていたのは、お母さんに対してだったんですか?」
「・・・・うん」
笑ってやりたかったけど、上手くいかなかった自覚がある。情けない顔になってないといいけど。
「今でも、母さんの声が耳から離れないんだ。身を切るような悲痛な声。ずっとずっと、俺を呼んでいる」
俺は唇を噛み締めた。
「マスター・・・」
心配そうに呼ばれて、俺は思わずKAITOの黒いシャツを握りしめた。
「夏生、夏生、行かないでって、ずっと呼んでいる。その声が耳から離れない。まるで、許さないわって言われ続けている気がしてた」
KAITOのシャツを握りしめたまま、俺は歩き続ける。オレンジ色だった住宅街に、夜がひっそりと手を伸ばし始めていた。
「俺の両親は、本当に仲の良い夫婦だったよ。きっとお互い、深く愛し合っていたんだと思う。・・・特に父さんは、今みたいに昔も出張が多かったから、久しぶりに帰ってきた時とかは、本当に四六時中一緒だった」
けれどそれは寂しさの裏返し。
「出張の期間、頻度は、父さんが昇進するごとに増えていった。段々と重要なプロジェクトに関わるようになったみたいだな。母さんは寂しくて引き止めたいけれど、それは出来なかった」
愛していたからこそ、迷惑をかけられなかった。
けれど
愛していたからこそ、寂しさは降り積もる一方で。
「いつしか、父さんと俺と、平等に向けていたはずの愛情が、俺一人に向けられるようになった。愛情を捧げても捧げても父さんはいなくて、捧げた分の愛情は返ってこない。それで、母さんの中で寂しさが頂点に達したんだろうな」
KAITOが怪訝そうに、眉を顰めた。そういう人の心の機微は、分からないのかもしれない。たとえ俺がKAITOに対して何の気持ちも示さなかったとしても、おそらくKAITOは他の誰かに、ボーカロイドにとって唯一無二の『マスター』の代わりを求めたりはしないのだろう。
もちろん父さんも俺も、それぞれ唯一無二の存在だっただろうけれど、それと同時に母さんにとっては、『愛する家族』という同じカテゴリーだったのだ。
「傍にいてくれない父さんの代わりに、ずっと傍にいることを俺に求めた。父さんを引き止められない代わりに、俺が外出するのを極端に嫌がった。ちょっと公園に行くだけだ、って言っても、『夏生も母さんを置いていくの』『夏生も母さんの傍には居てくれないのね』って、泣くんだ」
KAITOが言葉を失っている。
「そういう寂しい気持ちは・・・分からないでもないですけど・・・・それは、」
言いにくそうなKAITOの代わりに、俺はきっぱり言ってやる。
「そう。心の病気」
「・・・そういうの、テレビで観ました」
「さすが」
からかうように笑いたかったけど、思いのほか乾いた笑いになった。
「学校に行くな、とは言わなかった。けれど、少しでも帰りが遅いとどこに行ってたんだって、お母さんより大事な用事なのって・・・」
まだまだ子供だった俺には、どうして母さんがあんなに取り乱すのか分からなかった。今でも、分かっているけれど理解は難しい。
「母さんが泣くから、どうして泣くかは分からなかったけれど、最初は泣かれたらもうどこへも行けなかった」
ふいに、俺の腕を掴む母さんの手を思い出した。もっと昔は、俺の頭を撫でてくれていた優しい手は、いつしか俺を家に繋ぎとめる鎖のようになっていた。母さんは、決して俺に暴力など振るわなかった。そういう風には狂わなかった。俺の腕に母さんの爪が食い込んで血が出たことは何度もあったけれど。
「行かないで。傍に居て。寂しい、寂しい。あの人がいない。夏生がいない。こんなに愛しているのに」
覚えてしまった、哀しい人の言葉たち。俺の中に流れ込んで、今でも奥底で濁っている。
「でも、俺はまだまだ子供で、そう家に縛り付けられているのが億劫になった」
KAITOのシャツの皺が深くなる。けれど、KAITOは黙って俺を見ながら歩く。周りはもう暗い。
「でもきっと、言い訳にならない。母さんが寂しがってるって知ってたのに・・・」
あの人の愛情は、間違っていたのかもしれないけれど、本物だったのに。
それを、家族である俺は理解していなければいなかったのに。
「ある日、・・・休みの日だった、友達に遊ぼうって誘われた。俺はもうずっと誰とも遊べなくて、毎日母さんの泣く悲しい言葉を聞いていて、とても耐えられなかったんだ」
KAITOは、シャツを握る俺の手にそっと自分の手を重ねた。けれど、俺は顔を上げられない。夜になってもう自分の影が見えない地面を見つめて、歩き続けた。
「運動靴に足を入れて玄関に立つと、母さんは顔を青くして駆け寄ってきた。そしていつものように細い指に力を込めて俺の腕を掴んだ。夏生、お願い行かないで。お母さんを一人にしないで。夏生夏生夏生夏生って」
耳に実際の声が甦った気がして、俺は一瞬強く目を瞑った。
「それで、俺は・・・」
喉が震えた。声が上手く出なくなる。思わず立ち止まると、KAITOが背中を叩いてくれた。
「マスター、ちょうど公園があります。座ってお話しませんか」
顔を上げると、人気のない公園がある。明かりは出入口にしか立っていないが、不思議と不気味には感じなかった。
「・・・・・・ああ、そうだな」
俺たちは公園に入って、隣同士でブランコに腰を降ろした。
「・・・・あの日も、この公園で遊んだ」
「え?」
俺はKAITOを振り返った。
「因縁かな。お前がここに入ろうって言うなんて」
KAITOが困惑した表情を浮かべる。
「引き止める母さんの手を、母さんの涙を、言葉を、俺はあの日初めて振り払った。正直、もううんざりしてたんだ。どうして俺が、こんなに色々我慢しなきゃいけないんだって。・・・・子供だよなあ」
母親の涙より、自分の好奇心を優先してしまった。本当は、もっと友達と外で遊びたかった。もっと寄り道だってしてみたかった。
「引き止める母さんの声を無視して、俺はこの公園まで遊びにきた。久しぶりに一日中友達と遊んだなあ・・・。思えば、友達と公園で遊んだのはあれが最後のような気がする。・・・楽しかったよ」
全然楽しそうな言い草ではないと、我ながら思った。ブランコに座ったKAITOが不安そうな面持ちで、隣に同じように座った俺を見ている。
「・・・それで、・・・マスターのお母さんは・・・」
俺は、ブランコから公園を見た。塗装されたペンキの色が変わったくらいで、ここの遊具は6年前となんら変わってない。ふいに、公園の出入口に、帰ろうとするあの日の俺が見えた気がした。
「帰ったら、謝ろうと思ってた・・・。ごめんなさいって、でも、俺ももっと遊びたいんだよって、伝えようと思ってた・・・・、伝えられると思ってたんだ」
何の影も見えない出入口から、ずっと俺を見ているKAITOに視線を移す。不思議とこの闇夜の中でも、KAITOの目の青さはよく分かった。
「家に帰ったら、母さんは自殺してた」
KAITOの体が震えた。握りしめていたブランコの鎖が、一度ジャラと鳴いた。
その音はまるで、今も俺の腕に絡まる鎖の音のようだった。