レインボーデイズ


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玄関を開けると、電気が消えていて家中どこもかしこも真っ暗だった。お母さんはどうしたんだろう、とぼくは不安になる。

また、泣いているのかな。

お母さんが泣くのは、嫌だ。
本当に悲しそうに泣くから、ぼくまで心が落ち込んでしまう。もう可哀想って思うのを通り越して、疲れてきてしまうのだ。けれど、やっぱり遊びに行っちゃって悪かったなって思うから、ちゃんと謝ろう。

家に上がって、リビングを覗いたけれど誰も居なかった。

部屋かな?

お母さんは、自分の部屋をあまり好きじゃないみたい。お父さんと一緒に寝るための部屋だったから、自分だけじゃ広すぎるって言ってた。ぼくは広い部屋の方がいいと思うのになあ。ぼくはそんなことを思いながら階段を上がった。お父さんとお母さんの部屋、そして僕の部屋は二階にある。トントンと音を立てながら上って、一度だけ「お母さん?」と呼ぶ。返事は聞こえない。部屋の前に立ってもう一度呼ぼうとすると、ドアが少し開いていて、そこから部屋の明かりが漏れている。

なんだ、やっぱり部屋に居た。

僕は、ドアを開けた。


「・・・・・・・・・・」


赤い。
最初にそう思った。目に痛いほどの大きな赤がフローリングの床いっぱいに広がっていた。そしてその中に沈むように、お母さんがいた。




「その先は、覚えてない」
俺は息を吐いた。
「父さんに頬を叩かれて正気に戻った時には、俺の服まで血で真っ赤になって病院にいた」

赤いものが、母さんの手首から流れ出ているのだと気付いた瞬間、俺の喉を震わせたのが悲鳴だったのか嘆きだったのか。それでも、たまたま外を歩いていた人に聞こえるくらいの絶叫を上げたらしい。

「俺の声を聞きつけた人が、救急車を呼んでくれたらしい。母さんは、出血多量で危なかったけど無事だった。水場だったら死んでただろうって」

最初は頭が回らなくて、いろいろなことがグルグルしていて霧がかっていた。周りの大人たちの声を聞いていて、だんだんと意識がはっきりしてきて、湧きあがってきたのは怒りだった。

「俺、すごく腹が立ってきたんだ。やっぱり混乱していたんだろうな、父さんがどうしても許せなかった。俺の目の前に立った父さんを、俺は暗い病院の廊下が震えるくらい詰ったんだ」

夜の救急病院。廊下は看護婦さんがバタバタしているだけで、一般人は俺と父さんだけだった。俺は椅子に座って俯いていた。服についた母さんの血の匂いが鼻について、それが無性に悲しかった。正面に立つ父さんを、一度も見上げることが出来なかったから、今でもあの時父さんがどんな顔をしていたか知らない。

「お父さんのせいだ、お父さんがいつだって家に居なくて、お母さんが寂しがって。俺はどこにも行けなくて、お父さんは何も知らなかったんだろ?どんなに俺やお母さんが苦しかったか、何もかもお父さんが悪い、お父さんのせいだ、ってね」

俺の声が掠れて、もう何も罵倒する言葉が浮かばなくなって、ようやく父さんは口を開いた。あの時の言葉は忘れない。


『そうだな、――――すまなかった』


「父さんに謝られて、俺はやっと本当に悪いのは誰だったのか分かった」
「マスター」
先が読めたのか、KAITOが悲痛な顔で首を振る。

「・・・・俺だ」

KAITOの顔が泣きそうに歪む。

「子供すぎた俺が、一番悪い。父さんが仕事で居ないのは、仕方がないことなのに。だから母さんには、俺しかいなかったのに。俺はそれを裏切った。・・・あの日、あの腕を振り払わなければ、母さんをひとりにしなければ、あんなことにはならなかったかもしれない」

鼻がツンとした。泣きそうに歪んだ顔のKAITOが、ぼやけて見える。

「俺が、もっと、大人で・・・っ!我慢できる、人間だったら、良かったんだ・・・っ!自分の間違いに気付かない振りをして、それを父さんに押し付けた。それを父さんは受け取ってくれたんだ!」

『そうだな、―――すまなかった』
謝る父さんの声。俯いた俺には表情が分からなかったけど、―――疲れた声だった。

「父さんが謝ることなんか一つもなかったのに!・・・・・本当は、俺は自分の間違いに気付いていたのに、父さんが俺の言葉を認めて謝ったのをいいことに、その日以来全部父さんのせいだって思うようにした」

次の日、母さんの両親、つまりばあちゃんとじいちゃんが病院に来て、意識の戻らない母さんの前で父さんに離婚して欲しいと申し出てきた。父さんが、仕事を休んででも、意識回復後に精神病院に移る母さんの介護をすると言ったからだ。二人は、唯一の孫である俺のために仕事を続けていて欲しいと、だが仕事を続けてまたこんなことになってはいけないから、と父さんに言った。父さんは眉間に皺を寄せて強く目を瞑った後、『本当に申し訳ございませんでした』と震える声で言った。そして嫌がる俺を病院から連れ出した。

それが、俺が母さんを見た最後の記憶だった。

「母さんが寂しがったのも、泣いていたのも、俺を繋ぎとめるのも、自殺未遂をしたことも、離婚してしまったことも、もう母さんに会えないのも、全部全部父さんのせい。俺は本気でそう思ってたんだ・・・・・、KAITO、お前が来るまでは」
「・・・・え?」
またKAITOのブランコの鎖が鳴る。
「俺・・・?」
KAITOが不安そうに、シャツを胸辺りで握り締めた。

「お前、うちに来た最初の頃、俺にこう言ったよな?」


『ボーカロイドにとって、歌とマスターが、全てです』


KAITOがはっとした。

「お前がそう言った時、悲しい、と思った。何が悲しいのかよく分からなかったけど、でも無性に悲しくて、お前に謝らなきゃならない気がしたんだ」

かつて、あの人も同じようなことを言った。
『母さんには夏生しかいないの』って、それはそれは悲痛な声で。それを聞くたびに、俺は悲しかった。
そして俺は、裏切った。一緒に居てというあの人の心を、俺は裏切ったんだ。

「マスター、俺・・・」
「分かってる。お前は何も悪くない」

出来る精一杯の笑顔を向けてやる。この暗い闇夜の中で、見えただろうか。

「俺が勝手なんだ。勝手に忘れて、勝手に思い出して、罪悪感に駆られてる。俺とずっと一緒に居る、と言うお前の後ろに母さんを見てる」

頬を温いものが伝う。それは瞬きをすると勢いを増した。

「・・・怖かったんだ、KAITO」
「マスター?」
「もう、誰も裏切りたくない。一緒に居てくれと言う人を、置き去りにするようなことはしたくないんだ」

堰を切ったように、次から次へと涙は溢れた。

「お前が、『ずっと一緒だ』と言ってくれるたびに、俺は『置いていかないで』と泣くお前を想像する、・・・かつての母さんのように」

ずっと、心の奥にあった不安。恐ろしくて、今日まで口に出せなかった。昔と変わらず、いつだって正面から対峙することが出来ない自分の幼さが、悲しい。

「・・・お前は機械だ。そして俺は人間だ」

KAITOを振り返る。手で自分の胸を握り締めて、向こうも俺を見ていた。

「KAITO、いつか俺はお前を置いていく。どんなにずっと一緒にいたいと願っても、人は死ぬから」

10年経っても、20年経っても、60年が過ぎて俺が死んでも、KAITOは今俺の目の前に居る時のまま。ぼやけた視界の向こうで、KAITOが唇を引き結んだのが見えた。

「お前は死なない。俺が死んだ後に、いつ終わるか分からない時間を『マスター』を失ったまま過ごさせてしまう。お前のその時間が、俺には悲しい」

そして申し訳ない、と思う。


「ごめんな、KAITO」


やっぱり、口に出るのはこの言葉。

ずっと一緒に居ると言ってくれてありがとう。
ずっと一緒には居てやれなくて、―――――ごめん。

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