クロノクニ
□重紙 2
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大丈夫。大丈夫。私は貴方の味方だよ。
古びた机に、紙切れの上。
小さな紙の、安直な文字。
俺を支える、優しい言葉。
それでも、
それでも俺は、
君を
知らない。
あれから、あの男は毎回現れる用になった。
学校に、帰り道に、一人の時を見計らうかのように。
俺は、必ず友達と帰るように心掛けた。事情を知った先生と一部の友達は俺を励まし、協力してくれたので、正直スゲー嬉しい。
メールが届く。
もう少し、待っていろという簡潔な命令文にため息こぼして校庭を見つめた。
威勢のいい野球部の掛け声が、吹奏楽部のトランペットが不思議とマッチして聞こえた。
甲子園かって。胸の不安が掻き消された気がする。
『なんだ。騒がしい所だな』
「っ!?」
不意に、声をかけられた。誰も居ないと思っていたのに。
離れた窓の前に、自分と変わらない歳の女の子が、始めから居たかのようにたっていたのだ。
黒のハイネックに、同色のミニスカート。夕焼けの中のその少女は、亡霊のようで不気味だった。
不可思議なのは、彼女か、夕焼けか。
渦巻いた疑問に身を委ねていると、人形みたいな表情ひとつない少女が、茜色の絵の具をぶちまけたような空を見上げたまま口を開いた。
『…そう怯える必要はない。人間に危害を加えた所で、得るものは無いからな』
「…アンタ、うちの学校の生徒?」
基本的に、制服が基本の学校であるはずだ。少女は愚問を問われたような表情を浮かべた。
人間らしいはずのその仕種さえも、拭いきれない違和感を漂わせてならない。
『…つまらんな。何処へいけども貴様らは同類の言葉を吐く。
…私はありきたりな存在であり、それ以上でもそれ以下でも無い』
聞けば聞くほど混乱が激しくなる。
ようは、生徒では無いと言いたいのか。
『お前は私に低俗な疑問を尋ねるよりも、やるべき事があるであろう』
「はぁ?」
瞳だけをすっとこちらに向けた。昔あった動かすと目が閉じたりする人形を、彷彿させるほどそれは無機物な動作だ。
『白紙の中の…
…名のない少女…』
何を、言って、いる…?
収まりつつあった心音が、急激に爆発するように鼓動を増した。
背中を、蛞蝓が這うような不気味な汗が走るのをリアルに感じる。ヒューヒューと、渇いた喉に空気が循環するのを感じ、鈍りの靴でも履いたように重い。
頭がガンガンと痛みを発したのを他人事めいて思える。
ああ、自分は動揺しているのか。
堕ちた帝王のような皮肉めいた笑みを張り付けた少女は、瞳を自分から逸らした。
『狂うた親族、失われた過去』
「なんで、」
知ってるんだ?
誰にも、話さなかった禁句の数々に俺は恐怖を直に感じた。
どこにでもあるような漆黒の髪、ありきたりな黄色みを帯びた肌、なのに、人間から、いや、生物とは掛け離れた異型の怪物。
安直なその答えでも、彼女を比喩するには、愁夜にとってそれ以上には表現しきれなかったのだ。
『中島愁夜、真実を、知りたくはないか?』
…それは、何より甘美に思えた。少女は歌い手の如く、慈悲を含んだ甘い囁き。
していて、恐怖の中に輝く美しい真珠めいて。
それでも俺は、首を縦にふることは無かった。
沈んだ理性に代わって、生物の本能が拒んだと言ってもいいだろう。それは無意識だった。
手をとるな。
耳を貸すな。
目を合わせるな。
シグナルが悲鳴のように鳴り響く。
『…まぁ構わんだろう。
お前を、クニへ招待するにはまだまだ青い』
少女はようやくこちらを向いた。簡単な言葉を交わしただけなのに、とてつもない時間が流れて行ったように感じるのは錯覚か。
逆光が、彼女の顔に陰を落として、仮面のように覆っていた。
『宣言しよう。
お前は二回、あの男と対峙する。そしてお前は叫ぶのだ。
慈悲を求める哀れな幼子のように、我を呼び、我にすがり、俺はどうなったっていい、だから私を救ってくれ!とな』
「愁夜〜いるか〜?」
地獄の境目のような不気味な空間を遮断させたのは、友人のお気楽そうな呼び掛けだった。
「何だよメールしたのに、入り口で20分だぜ?親父さんに誘拐されたのかと思ったじゃねーか、マジ焦った」
「わ、わりぃな…」
黒の少女は、居なかった。
使い古した布団の中で、中島愁夜はぼんやりと考えていた。
けれど、不思議なことに、不気味な少女ではなくその言葉についての事しか考えられない。
俺はどうなったっていい、だから私を救ってくれ!
自分を犠牲に自分を救ってくれ、なんと矛盾した言葉なんだろうか。そんな、頭のおかしい言葉を、俺は言うはず無い。
ふと、机を見つめた。
幼い頃より、自分が思い詰めると、必ず近くに手紙が置いてあった。宛先も名前も、なにもない手紙と言うよりメモに近いソレ。
その安直でいて、簡潔な言葉は、中島愁夜を何度も慰め、絶望より救っていたのだ。
名も知らない、少女らしき手紙。不気味に思わない事は無かった。母でも父でも、祖父でもなく、愁夜には兄弟が居ないので、赤の他人に間違いは無いだろう。
返事をしたことはない。
届くか不明だからだ。
「…」
いや、
恐らく、自分は逃げていた。彼女の正体を知ってしまうのが怖いのだ。
ノートを一枚引きちぎった。
使い慣れたペンを震える手で無理矢理掴んで、それに書き込む。
たった一行を書くのが、こんなに恐ろしいなんて。
身を引き裂かれる恐怖が、愁夜を襲う。
自分でも、驚きだった。
まるで、神の教えに背いた聖職者のようで。
貴方は、誰ですか?
返事は、来ない。