クロノクニ

□重紙 5
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愁夜は物静かな子供だった。
いや、おしとやかな子だという表現の方がしっくりくる。
同年代の子供が、かけっこを興ずるとき、愁夜は人形を可愛がっていた。同年代の子供が、ボールで遊んでいたとき、愁夜はままごとで遊んでいた。

そう、愁夜は生まれながらにして、ある障害を抱えていたのだ。

「愁夜!こんな女の子のような遊びは止めなさい!」

愁夜が人形に触れる度、無意識にも右手が上がっていた。
左の顔を赤く腫らし、涙ぐむ我が子に何度苦悩したのだろうか。
これも、我が子を愛する故。
我が子が道を外さぬように。

「愁夜!」

全ては、子供の未来の為。

私には鬼でもなってみせる。

妻はそんな私を軽蔑していた。
あの女はそんな私を、あろう事か罵倒したのである。私は愁夜を救いたいだけなのに。
このままでは愁夜は世界から孤立する。
後ろ指を刺され、低脳な馬鹿共に笑われる子供の姿が思い浮かぶ度に、身が張り裂けそうだった。
愁夜に、そんな思いをさせたくない。

「愁夜!」

今日も、明日も、私は息子の赤く腫れた林檎のような頬を見ることになるのか。

お前の為なんだ。


お前の為なんだ。


お前のためなんだ。


おまえのためなんだ。


オマエノタメナンダ。








妻が家を出た。
悲しくは無かった。
愁夜を女としてありのまま育てよう、馬鹿げた妄想をほざいている女など。
今の世界をみるがいい。
愁夜のような半端な存在なんて、押し潰されて笑い者にされてしまう。
盲目の現実を信じる妻など必要ない。


やがて、愁夜は己の心が女で有ることに反発を覚えた。
愁夜がタダシイ道に歩だしたのだ。
そのうち、愁夜は次第に少年のように外を走る事が増えた。
愁夜が、気付いたのだ。
自分が男で有るのだと。
愁夜は気づきだしたのだ。


もう少しだ。
もう少しで女のお前を殺すことができる。

愁夜が少女のような行動をとれば、すぐに手が飛んだ。
愁夜は男であるべきだ。
なのに、何故お前がいるのだ。

殺してやる

殺してやる

殺してやる

お前の価値など、丸めた紙屑にも劣るのだ。
愁夜がタダシイ人であるには、お前は邪魔なのだ!

愁夜、安心しておくれ。
お前を蝕む女のお前は、







私が殺してやるからな。













『それが、貴様の答えか』

白亜の闇が、視界を支配している。統一されたその世界の独特の不安感から逃れる術を、男は知っていた。
眼前の漆黒の怪物を、見ることだ。
唯一、色を持つそれを見る行為は男は嫌っていたが。
己を見ようとすれば、身体はその白い闇に完全に溶け込んでいるのだから。
ただ、視覚と視覚、言葉のみで、今の男は成り立っているという、奇怪な状況なのだ。
混乱は無い。
何故なら、男は幾度なくこの不可思議な空間に足を踏み入れたのだから。

『その言葉に偽りは無いか』

「後悔などないに決まっている。私は間違えていない」

迷う事ひとつなく、男は断言してみせた。その姿は誇り高き老帝の形を映して、動かない。
だが、白亜の魔境に佇む怪物に果たしてそうは見えただろうか。
存在無き身体に冷汗が伝るのを、力無く感じる。
浮き彫りになる無力感に、男は怯えた。

『お前は変わらんな』

麗しき美姫から精悍な青年、可憐な少女とせわしなく姿を失い、再び手に入れる怪物。一定の姿なく流れる水のように変わりゆく身体に、吐き気を感じた。

やはりこいつは化物だ。

「お前のような悪魔にとっては、だろ。人は不動に見えるしかあるまい」

闇に堕ちた真珠のような瞳が、一度だけ細められた気がした。果たしてそれは微笑みか嘲笑か。少なくとも、ソレの感情は人とは意味が異なる事を、男は知っている。
『悪魔とな』

不意に怪物が低く笑い出した。
喉元に向かい、這う蛇のような不気味さが身体を駆けた。

『妄言だな』

暗幕の中の闇の目が、冷たく、鮮やかに瞬いた。

『まぁ、間違いではあるまい。
人は、名も無き恐怖に、畏れる形無き畏怖に、名を与えて向き合った生物だ。貴様にとっての我は悪魔を形づけるのも仕方のない話だ。
…だが』

白紙に描かれた道標。
全て決められた物語。
恐らくは、最初からそれは崩壊への序曲に過ぎぬ戯れ事遊び。
硝子瓶の中の鼠は、自分が自由だと信じていた。その命さえも支配された、只の玩具だとも知らずに。

『貴様ほどの、“ヒト”という名の悪魔には敵わぬな』

初めから己に、輝かしい未来など用意されてなどいなかったのだ。悪意という名の餌を粗食し、ぶくぶくに肥え太った漆色の心の形。それは今まで目を逸らしつづけた自分自身にも酷似していた。

「私は間違っていない!
あのまま、女の心のまま!愁夜が生きていたら、愁夜は笑い者だった!!」

『だから貴様は女の奴を否定し、殺そうとした。』

「男の心が生まれた時、私は泣いた。
あの女とは全く違うタダシイ命だ。本当の私の子供の誕生に感動したさ。
…なのに女は生きていた!!」


自分の姿を晒せぬ姉は、理解せぬ暴力を受けた弟に、希望の手を差し延べた。



手紙、と言う名の手段を使って。



『臆病な子羊に過ぎなかった』





『愁夜も、白紙の少女も』





『だが、貴様は違う』




臆病で、愚かで、小さな己を、晒しだされるようで。プライドと世間に身を隠した鼠が一匹。

『お前は只、守りたかったのだな』

穏やかに。ただ、静かに。

愚かな子供に、


救いは。


ましてや、赦しなど。














『ただ、自分を』








無い。

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