クロノクニ

□重紙 4
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中島愁夜は、その日学校へは行かなかった。

異種の怪物と出会った頃の穏やかな夕暮れ。緋色に人工の大地を燃やしている。一枚の風景画のようにも見えた。
その中に、愁夜はたった一人で歩いている。
何処に向かうのか、何を求めるのか。
彼にすら、答えが解らない。
ただ、言える。
俺は、あの男に会わなくてはならないと。

人気のない裏路上を縫って、佇む暗闇に視線を送った。
底無しの不安感は、闇へと姿を変えて、愁夜を誘う。嗚呼、まるで手招きをしているようだ。吸い込まれるように、愁夜は足を進めた。


人影が、見えた。
無機質なコンクリートに墨汁でも垂らしたような影は、間違いなく愁夜を見ている。

「……親父」

古びたコートに、死人めいた顔を張り付けた男が、表情無く愁夜へと足を運び始めた。

荒れた荒野の顔が、ゆっくりと足を進めるのを他人事の用に感じる。
暗闇が男の表情を隠した。
思わず後ずさる気持ちを押さえ付け、愁夜が顔を上げる。


「あんたに、聞きたい事がある」










赤い、牡丹が咲いていた。
彼女の純白に似た、汚れひとつないワイシャツに、鮮やかな華が一輪咲いていた。

意識が霞かかる中で、愁夜はぼんやり考えていた。

その鮮やかな紅が華では無かったと、凍り付いた自分がつぶやく。


「愁夜」

男の声が、耳を通った。


「これでお前は自由だよ」

散った花びらが、かつて父だった男にこびりついて、剥がれる。

真っ赤な

真っ赤な

真っ赤な

真っ赤な

真っ赤な

真っ赤な


赤い、はなびら。












このまま、自分は死ぬのだろうか。

彼女を救えぬまま、祖父や親友をこの渇いた大地に置き去りにして。

華は腹部を侵食し、赤を広げていく。

死を鼻先に感じても、何故だか愁夜は恐怖を抱こうとしなかった。底知れぬ暗闇を手先に当てられても、愁夜は怯える事すら無かった。
喉元に、死に神の鎌が見えない。神や実態の無い物など信じはしないが、その時の少年にはそれ以上の表現が精一杯だった。
男の姿はもう、無い。

「」

声は掠れて虚空に消えた。はかなく、愚かにも。

「…っ…」

『苦しいか』

視界の端に、怪物が影を落としていた。不快に思っても、それから目をそらすことは不可能だ。
体がピクリとも動かない故に。

『救急車でも呼んでやろうか』

「た…」

頼む…

しかし、その言葉を呟く前にひんやりした白い手の平が口を塞いだ。艶やかなる美姫めいたきめ細かな白だと感嘆でも漏らしただろう。かつての、自分なら。
唇から伝わる爬虫類にも似たその不気味な温もりに、背筋が凍り付いたのをしっかり感じて。

『ここで人間を呼ばずとも、お前は助かるだろう。だが、ソレは同時に、お前がこの世で1番大切としたモノを裏切る事となる』

何を言いたいのか
何を示唆しているのか

愁夜は、身が凍るような寒気を全身に感じた。足首から、恐怖という名のそこしれぬ闇色の大蛇が這う。
不気味に嘲笑う、怪物の吐息がすぐ側まで聞こえた。手を伸ばせば安々とそれに触れる事が可能に違いない。
なにか、得体の知れない対価を払えば。

『さぁ、愚かな人の子よ。

…答えるがいい。

ここでお前が助かるか。

お前を、

誰より愛し、
誰より庇護し、
誰より救わんとした。


白紙の彼女…
否、









もう一人の、お前を、救うか』



その単語を呟かれたとき、全ては真実であったと確信した。
手紙に書かれていたのは、
嘘偽り一つ無い
ただの答えであると。

あの少女は、
あの白紙の少女は

「い…だ!」

全て決められていた事だったのか。
深淵の白紙に書かれた言葉の羅列のように。一字、一句、間違いなど存在せぬ操り人形の物語。

それを運命とするには、余りにも…

「嫌だっ…!」

失いたくない!
彼女がいたからこそ、愁夜は生きる事に絶望しなかった。
父親の意味不可解な暴力にも、誰にも明かせぬその闇にも。
迷う事も、踏み外す事もなく、歩んで行けたのは彼女の小さな手紙に違いない。

彼女は、此処で死ぬ自分に変わって、身代わりになる気なのだ。

『さあ、さあ、簡単な戯れ事だろう。貴様が死ぬか女が死ぬかの話しなのだ。下らぬ私情など棄ててしまえ。お前は生きたいのだろ』


「嫌だっ…!」

救う手立てなどない
全ては白紙の少女が決める事。
けれど、それは愁夜が最も恐れる終焉なのだ。


彼女をミゴロシニシテ、
生き延びる未来か。



「頼むっ……!」


だが、怪物は知っている。

怪物は、その選択待っている。

「俺はどうなってもいい!!」

屈辱なんて、恥なんて知らない。そんな餓鬼みたいな見栄なんて何の足しになる。







「だから私を助けてくれ!!」










『中島愁夜』



『お前は知らずに私の手を掴んでいたのだ』


『白紙を見つめるその前よりも』

『お前は』






『もう』




『この哀れな世に足を踏み入れる事はない』




『共にくるがいい。あの娘を連れて』




『さぁおいで。




クロノクニは側にある…』

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