クロノクニ
□迷雪 1
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ひ、ひ、ひ、ひ
呼吸がこんなにも億劫で苦しいものなんて、今まで考えた事も無かった。
喉元を誰かがその手で締めているようにも似ている。
その感触を感じる気がして喉元を掻きむしる。
血がでたが、構うヒマなどない。手の中の車のハンドルは、汗を染み込ませてしっとりとしていた。
ひ、ひ、ひ、ひ…
はかない花びらめいた新雪は、うっすらと道路を塗り潰し、全てを覆う。
かつては邪魔だと鼻で笑ったこの雪に、私は誰よりも深く望んだ。
降って。
もっと降って。
お願い!!
あの子を私の前から消してください。
雪の冷たさが、私を罪悪感に包ませる。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
私は貴方を愛せない。
白い息が視界を隠す霜月の常闇。
私は子供を殺しました。
理由は簡単。
邪魔だったから。
不気味な白化粧をした山々の道を進む。まるで死に化粧を施したみたいだ。私の心情を表したような灰色の空を仰ぎ見て、ため息をついた。
生まれたあの子の面影があった訳でもない。
あの子が人に見つからないか不安だったのだ。
あの子の父は、私が18になる直前になくなった。
君が18になったら、俺と結婚して家庭を作ろう。
その約束は、その未来は、只の虚像となって私に歩み寄った。
あの人の忘れ形見として、一人で育てて行くには今の私には重過ぎたのだ。
私は卒業もしていないのに。
不安と共に生まれたその小さな温もりは、やがて嫌悪の視線を受け止めた。
あの人は居ないのに。
どうしてこの子供は、なんの悲しみも感じずに生まれたのだろう。
あの人は死んだのに!
笑うな!
笑うな!
笑うな笑うな笑うな笑うな笑うな笑うな笑うな笑うな!!
施設に預けたら、私が出産した事がばれてしまう。
だったら、道は一つしか無い。
朝日が昇る。
夜が明けるのだろう。
光を浴びて、白亜に満ちた雪は、薄青い影をおとして私を迎えた。
ひ、ひ、ひ、ひ。
まだ呼吸が落ち着く事は無い。
まだ手の平にあの子の温もりが残っていた。
振り払うように、仕切に膝へと擦りつける。
暫くすると、無人のパーキングエリアが見えた。
幸いにも、雪はさほど積もってはおらず、車を止めるのに抵抗は無かった。
やる気のない発光を止めない自動販売器のココアを飲んで、震えた。
寒い訳ではない。
人を、殺したという実感が、今になって波のように押し寄せたのだ。
厳密には、直接的に殺した訳では無いのだが。
それでも命をこの白い世界に置き去りにしたという罪悪感が私を揺さぶる。
子供もやがては凍死してしまうに違いない。それまでに此処を去らなければ。
私が出産したことも、置き去りにしたのも解ってしまう。
そうなれば、明るい未来は皆無に近い。
空になった空き缶をごみ箱に叩き込んだ。
『…不愉快な味だ』
突然、背後から声がした。
女のようにも男のようにも感じた声に、身体が硬直する。
さっきまで誰も居無かったのに。固まる身体に鞭打って、背後を見た。少年だ。
古ぼけたベンチに少年が座っていた。
俯いた瞳からは何も見出だせず、ただ虚空を見つめるような不気味な雰囲気を感じた。
手の中の開けられたコーラを、降り積もる雪に注ぐ。
血のように、その白を浸蝕する液体に思わず目を反らした。
今の自分にはまともに物を見れない。
『このような液体を取り入れる貴様らの気が知れぬ。
肉体が醜く肥えるのも当たり前だな』
低く笑い、コーラを全て雪に注ぎきると少年はその空き缶を地面に放り投げた。
グシャッと無造作に踏み付けられたアルミ缶は不様にひしゃげ、形を失っていく。
『あぁ無情とはいったものだ。
今の人間は己の足元のみの世界を歩んでいる。知らず知らずに道を外し、歪んでいく』
顔を上げた少年の、黒曜石の眼に自分が映る。
漠然とした不安が覆うような不気味な感覚が私を襲うのを感じて、背筋が凍った。
『…所詮はただの我が儘に過ぎない。それに気付くのは全てが終焉へと向かった後だ。聞こえぬか?嘆きの唄が』
微かな粉雪が混じる風が吹き抜けていく。
「…なんの話?」
『聞こえぬ事はないだろう。
貴様ならば』
静かに目を伏せて、少年は言葉を紡いだ。
まるで、無知な幼子に物事を教える老人のようにも見える。
しかし、そんな穏やかなものとは掛け離れた不気味さを私は感じていた。
『…泣いている』
「?」
『泣きながら求めている』
「な、なんなの君?」
『解らぬか?』
貴様の子供が泣いているのが』
「ッ!?」
身体とゆう身体の血管から、急激に血液が引いていく。
目が限界まで開いて少年を凝視した。
何故この少年は、私が子供を置き去りにしたことを知っている!?
「お…お願い!誰にも言わないで!」
血を吐く思いだった。
誰かに見られた、つまり私にもはや未来は約束されない。
それでも私は言わずにいられなかった。
言わないで
言わないで
言わないで
言わないで
言わないで!
『何故私が告げ口をするのだ?』
返って来たのは、予想外の言葉だった。